電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

それぞれの戦後、それぞれの昭和

押井はこの『立喰師列伝』を「壮大な偽史としてのオレ戦後史」として語ろうとしていたようだが、まあしかし、以上のような、押井の「戦後」のメンタリティは、わたし個人としては、面白くはあるけれど、どうしてもいまひとつ幅が狭いように感じたのも事実だった。
要するにとにかく「戦後ッ」といえば、すぐ、皇居前メーデー、60年安保国会議事堂前、オリンピック、万博、全共闘赤軍派三島由紀夫…といったものを象徴的なデテールとして持ち出して語るセンスである。
一見いかにもそれらこそが「戦後ッ」のデテールのように見えるが、これは「庶民の欲望」と直接関係のない天下国家の大文字のお話であって、政治や思想や文学に興味を持つような「青年期のメンタリティ」のみに引っかかるものに絞られているからであろう。
余計なお世話であるが、それゆえ、どうしても、押井の語り方では、今どきの若い単純な純粋まっすぐ君右翼は、それだけで条件反射的に「押井はサヨク! けしからん!」としか思わずに拒絶してしまうのではないか、という、野暮で無粋で余計な心配をしてしまうのである。
たまたま先日、小松左京の『威風堂々うかれ昭和史』(読売新聞社)を読んだのであるが、これは、そうした「青年期のメンタリティ」のみに落ちた歴史語りを実にうまく回避していたと思えた。
まあ、要は小松の幼児期からの自伝的ヨタ話なんだが、とかく戦前戦中といえば軍国主義一色、戦後といえば民主主義という単純な視点を相対化する、それこそ「民俗学的」なデテールに満ちている。
大正期から昭和初期の映画と、ラジオの普及による歌謡曲文化の広がりなど、芸能・音楽関連の話がやたら多いのだが、少なくとも昭和15年(1940年)頃まで、小学生までがマキノ雅弘のチャンバラ映画やあきれたぼういずのジャズを楽しむような昭和初期のモダン大衆文化の空気は平然と残っていた事実、昭和初期の少年たちは皆、別にちっとも軍隊や戦争が好きな子でなくても、20世紀の発明物で第一次世界大戦で急発達した飛行機に熱中し、当時飛行機の航続距離記録を次々塗り替える日本の航空技術を誇った事実、昭和12年(1937年)に南京が陥落した時は、庶民は皆これで戦争が終わると思ったという事実、戦時中は軍国主義に反発し戦後は共産党に入ったことさえある小松でさえも、戦前唱歌の凛々しいメンタリティは今も大好きで、そのことにまったく矛盾を感じないという事実、戦後のアプレ大学生の間には昭和初期ばりのエロ・グロ・ナンセンスが再流行した事実(第一次大戦敗戦後のドイツと同じである)、戦後も旧帝大の学生証を持つ者はそれだけで地域社会から信用され、女郎屋でもどこでもツケがきいた事実……などなど、単純な思想の左右上下に回収されようないデテールが詰まっている。
だがしかし、裏を返せば、小松の語るデテールは、大阪の町工場経営者の子という、いわば戦前の健全な庶民であり同時に都会の商工業従事者という階級が前提の文化なのかも知れない。
農村部出身者には、都会的な文化に触れる間なく徴兵され、あっさり純朴に従順に軍国主義に染まった人間もいたかもしれないし、また、そうした血の通った「大衆文化」が大量生産大量消費の中で滅び、ジャンクフードとディスコミュニケーションに生きるようになったのが押井の民俗学的戦後のデテールなのかもしれない。
結局「それぞれの昭和」「それぞれの戦後」はいくらでもある。