電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

2008年最後の挨拶とか年間ベストとか

そんなわけで、なんとなく恒例となっている、私的年間ベストの2008年度版です。
今年は、毎年これやってる仕事仲間の河田拓也氏(id:bakuhatugoro)と奈落一騎氏(mixiに入っている方はこちら)がどっちも先に書いてますが、当方はギリギリまで仕事だったんで。

1.書籍『庶民列伝(上)』竹中労asin:4380072169

「世界革命浪人」竹中労による初期創価学会の人びとへの聞き書きルポ。
今でこそ、どっこい大作先生バンザイのあのウザい団体は、なぜあんなに強い組織力を持つにいたったのか? それを外部から見下してバカにするだけでなく、組織の成立背景と組織を構成していた下々の人々に分け入って踏み込んだ竹中の筆致は、牧口常三郎初代会長時代から終戦直後の初期創価学会は、正しく革命団体であり(牧口常三郎治安維持法で獄死した!)、日本の飢えたる者が希望を寄せた集団だったことをよく示している。
戦後間もない時期の夕張炭坑では、貧者の味方のはずの共産党社会党系の労働組合正規雇用の炭坑夫しか相手にせず、いちばん貧しくて苦労しているはずの日雇い炭坑夫は取り残され、彼らを救ったのが創価学会だった、というエピソードなどは、フリーター派遣社員プレカリアートが問題視される現代こそ読み返されるべきだ。
確かに、そんな初期創価学会の素朴な貧しき人々の結束を熱っぽく語る竹中の筆には、左翼オヤジの暑苦しい勘違いロマンティシズムとしか思えないものもかなーり混じっている。
実際、現代に生きるわたし自身は、本書中の初期創価学会員たちのような、ひたすら無知と貧苦の中で生き、それゆえ強い信仰のもとに結束した暑苦しい人々とお仲間になりたいかといえば、かなーりイヤである。が、そこには、わたし自身を含め、1980年代以降の中途半端に飽食な世に育った世代が失ってしまった真摯さがあることは否定できない。

2.書籍『昭和三十年代主義』浅羽通明asin:434401491X

4月22日の日録参照。
本書は乱暴に言ってしまえば「日本はもっぺん貧乏に戻れ。それが正しい」と説いているわけだが、これは単純な年寄りの昭和懐古ではなく、ちゃんとした根拠がある。
浅羽通明は『アキバ通り魔事件をどう読むか』洋泉社ムック編(isbn:4862483157)でも、昨今のフリーター派遣社員プレカリアートは家賃二万円台の風呂なし部屋から始めよと説いているが、確かに、こういう物言いには反発する人間も存在する。
赤木智弘は31歳フリーター当時、親元住まいと記していた。なるほど親元なら風呂つきでそこそこの生活は保証されているだろう。だが非正社員が一人暮らしを始めれば生活環境のランクは下がる。人間、現状より下がるのはイヤだ。これは仕方ないのかもしれない。
とはいえ、上流も下流も皆がそんな現状既得権にしがみつく志向でどうするのだ?
『昭和三十年代主義』は、ただ即物的・経済的に「貧乏に戻れ」と説いているだけでない。バブル時代のような、よい部屋に住むとかいった「金で買える豊かさ」ではない、共同体や人間関係による充実感を取り戻せと説いている、ここが重要なのだ。
確かに、雨宮処凛らの反貧困運動は、最低生活を送る若者を支える意義も大きい。だが、要は自分もバブル勝者になりたい負け組のルサンチマンばかりではいけない。
そういう貧富の勝ち負けという一元的なものさし自体を相対化し、幸福感、価値観のあり方自体を変転させることがそろそろ必要なのではないか、ということなのだ。
別に高給取りになって高級マンションに住むことだけが唯一の幸福のモデル像じゃない。幸福感、充実感ってのは、人との関係で決まる側面も大きい。そしてそれは、ただ欲しがるだけで手に入るものではなく、自分が何をやってるか、何ができるか次第なのだ。

3.書籍『甘粕正彦 乱心の廣野』佐野眞一asin:4104369047

8月23日の日録参照。
満洲の夜の支配者とも呼ばれた甘粕正彦憲兵大尉は、じつは悪の帝王でもなければ下等な軍国主義の走狗でもなく、ただひたすら地味に糞真面目な公務員だった。
以前も書いたが、こういう挫折や屈折を抱えた人間特有の真摯さは決してバカにしたくない。ただし、そういう人間が、それゆえ大義のためであれば残酷なこともやってしまうというのも事実なのだ。甘粕はもし正式な命令があれば、やはり祖国に反逆する主義者や不逞外国人は殺したろう。ただ職務に忠実な公務員の仕事として。
それでも、わたしは手の汚れていない空理空論家よりは、こういう汚れた努力家のほうが好きである(自分のすぐ側にいたらどうかはまた別として)。

4.書籍『大空のサムライ坂井三郎asin:4769800002

今年、仕事のために読んだ本の中では一番面白かった。
坂井三郎が少年期の昭和初期、地元の佐賀県では蒸気機関車は走っていたが、上京して電車というものを初めて見たとき客車だけでどうやって走っているのかと思った、とかいう話など、当時の生活感の時代証言としても面白い。
名場面は数多いが、やはり圧巻は、ラバウル上空で撃墜されかかって一時的に視力を失いながらも四時間の長距離飛行で奇跡的生還を果たす場面だ。
負傷して目に血が滲んで視界も失った坂井飛曹は、失血で意識も遠くなる中、このまま海に墜落して死ぬのかと思うが、どうせ死ぬなら敵機に撃たれて死ぬほうがよいと考えて、朦朧としながら敵機を探そうとしたりしている。
一人で海に落ちるよりは敵に撃たれて死ぬほうを望むというのも妙な心理だが、坂井三郎はただ徴兵された兵士ではなく、みずから戦闘機乗りに志願したパイロットだった。敵でも同じパイロットには一種の同胞意識があり、自分は一人でも多くの敵機を落とすことに血道を上げているが、それは敵もお互い様で同じだろう、と、そんな意識があったようだ。
何より、一人で海に落ちるのは他者から切り離された無意味で孤独な死だが、敵に撃たれればその敵の手柄となり、敵とはいえ他者にとって意味のある死となる、そんな思いがあったのかも知れない。
どうあっても死を逃れられないという状況に面したとき、粛々とひっそり死ぬ者もいるが、どうせなら他者との関係で意味を持つ死を迎えたいという人間もあるのだ。なるほど、わたしも人生行き詰まったら、ただ死ぬよりは道ずれにムカつく悪徳商法の会社の社長でもテロろうかと考えるな(←オイそれは少し違う)。
こう書くと不謹慎だが、やはり、生き死にがかかったときの人間の心理が吐露されたものは面白い。

5.映画『ノモンハン』監督/渡辺文樹

今年「天皇制のタブーに踏み込んだカルト映画」として一部で物議をかもした『天皇伝説』の同時上映作品。個人的にはこっちのほうが興味深かった。
作品テーマ自体は、ありきたりといえばありきたりな戦前日本の天皇制と軍国主義批判なのだが、そういう思想的な内容以前に、いかにも戦前日本らしい昭和の百姓日本人顔の爺さん、婆さん、おっさん、おばはんの怖さがもぉ本当に秀逸なのだ。
地元じゃ名士だったはずの陸軍大学出のエリート軍人がノモンハンの戦場で敵の捕虜になるという恥を犯して帰ってきたり、出征した夫の帰りを待ってる貞淑な妻が不倫を犯したと噂されるや否や、「一族の恥」とばかりに寄ってたかってねちねちと無言のプレッシャーで迫ってくる田舎世間のウザさとかが実に見事に描かれている。
とくに、爺さんだの婆さんだの叔父だの叔母だの義理の兄弟だのの一族郎党で取り囲む圧力の恐怖はリアルだった。いかにも昔の日本の農村らしい広くて暗ぁ〜い屋敷に浮かび上がる田舎親父、田舎老人の顔のどアップの怖さときたら、ああ、昔の日本世間ってこうだったね、とひしひしと感じる。
なんでも渡辺監督は毎回プロの役者を使わず、一般から雇った人を出演させているという。よくもまあ、ここまでリアルに昭和の百姓顔を集めたと感動する。いやマヂな話。
こういった地味な昭和の田舎日本の描写の積み重ねにより、上映時間一時間を過ぎてようやく描かれる荒唐無稽なノモンハンの戦場風景が生きてくる。
戦場シーンは70年代のヒーロー物ではお馴染みの採石場で撮影した、実に安っぽいもので、CGなんかまったく使ってない。しかし、フィルム撮影の質感が臨場感を出している。
久々に、安易な昭和的雰囲気のリメイクではない、本ッ気で昭和の日本の空気感がある「良いイヤな日本映画」を観たという気がした。
イロニー抜きに、『ひぐらしのなく頃に』のような、昔の日本の田舎のドロドロした情緒を舞台とする作品をやりたいという若人であれば、一度は観ておくべき価値はある。

6.映画『ファイト・クラブ』監督/デイヴィッド・フィンチャー

6月に起きた加藤智大の秋葉原通り魔事件のあと、こーいう暴力は見ていてイヤな感じしかしないが、では「許せる暴力」とは何か? と考えて視聴。
本作品の暴力はまったくイヤな感じがしない。
加藤智大や宅間守酒鬼薔薇聖斗の暴力は、サエないうだつのあがらないしょーもない男が、そんな奴でも刺し殺せる相手(一般市民女子供)を狙って傷つけ、そのくせ自分は安全圏に置きたがっているところがイヤなのだ。
しかし『ファイト・クラブ』の暴力は違う。そーいうしょーもない不平不満男(アメリカの下流層)が、そーいう奴ら同士でえんえんと殴り合う。当然、殴る側自身も痛い思いをする、だが、そのことによって「生」の実感を取り戻そうとする。「弱い者たちが夕暮れ さらに弱いものを叩く」(byブルーハーツ)式の暴力とは違うのだ! 敵はハッキリしている、男の牙を抜く消費文化、腐れブランド品と腐れクレジットカード社会だ!!
加藤智大になりたがる安易な便乗犯は、殺人予告書き込みの前に、いっちょ『ファイト・クラブ』の自己責任ストイシズムを学んで欲しいものである。
劇中の「世界大戦も大恐慌も知らない世代」という台詞は、911テロと昨今のアメリカの金融破綻で見事ひっくり返ってしまった。ざまあみろである。

7.映画『靖国 YASUKUNI』監督/李纓

5月17日の日録参照。
確かに本作品は、靖国神社に象徴される戦前日本の精神を批判的する意志が込められた作品ではあるが、その映像の構成要素は一切創作物ではなく、実在物である。
軍服姿で絶叫する参拝者、靖国を批判する左翼が乱入してタコ殴りにされる物騒な式典、かつて敵兵に日本刀を振るって血みどろの戦いを演じた英霊たち……これらもすべて事実の一側面である(ただし一側面であって、全部でもない)。
これらも含めて靖国を肯定できなければ、正しい愛国者とはいえない。こうした部分にだけは目をそむけ「こんなのは(ボクの好きな)靖国じゃない」と言って、血の臭いがしない脳内靖国しか愛そうとしないのは、愛国心ではなくただの自己愛である。

8.映画『動物農場』(ハラス&バチュラー・カートゥーン・フィルムズ)

ジョージ・オーウェル原作の冷戦期の英国アニメ。宮崎駿が絶賛するまでなく、以前『架空世界の悪党図鑑』の「文学の中の悪党たち」の章で、豚の独裁者ナポレオンを取りあげたことのある当方としては、観に行かないワケにはいかなかった。
登場人物の大部分は豚だの馬だの羊だのという動物で、画面の絵だけはじつに牧歌的だが、それだけに、横暴な資本家…もとい農場主を打倒した革命の後、農場が共産党スターリン…もとい豚のナポレオンの独裁に移行して以降の残酷さは際立って怖い。
原作のラストでは、農場の独裁者になった豚が旧支配者の人間と一緒に宴会をやっている。これは原作が執筆された当時、ソ連と米英が同盟国になっていたため「もはや資本主義国もソ連も同じ穴のムジナ」という皮肉が込められていた。
映画版のラストは原作と異なり、動物農場のほかにも豚が支配する農場が各地に作られ、その豚たちが集まってふんぞり返っている――これは戦後、共産政権の旧ソ連の衛星国が各地に生まれたことを示している。
本作品は1951年に製作が開始された(完成は1954年)。当時、劇中の「豚のナポレオン」のモデルであるソ連スターリンはまだ存命中だった。製作者のジョン・ハラスは共産政権となったハンガリー(その後、反ソ連政策を取ろうとしてソ連の軍事侵攻を受ける)出身である……この時代背景を考えると、緊迫感に溢れているのも当然だろう。

9.漫画『EDEN It's an Endless World!』遠藤浩輝

とりあえず、今年いつの間にか完結してたので。
10年も連載が続いていたが、ミもフタもなく言えば、単行本第8巻(ちょうど連載5年で全巻の真ん中あたり)で主人公エリヤが初めて人を殺して手を汚し、男として背負うものを背負う覚悟を決めたところで描くべきことは終わっていて、あとは蛇足だった。
実際、筆者自身、大人になった主人公を描かねばと思いつつも、この話をどう着地させたら良いのか迷走していた感は拭えない。で、終盤は人類補完計画みたいな大仕掛けな展開を持ち出したものの、結局、ほとんど始めと何も変わってない日常がオチである。
しかし「人類が存亡の危機を脱しても相変わらずくだらない紛争や犯罪はなくならない、でも、人間個々人は成長して前へ進んでいるかも知れない」という視点は悪くない。
そもそもこの作品は、ご大層に「世界」を語って悲観ぶるのが頭良いとかいうスノッブさに対し、世界が絶望に満ちてるなんて前提なんだから期待はしないが、でも希望は捨てない、という健全さを打ち出そうとしていたと思う。その初志を貫い点は評価したい。

10.映画『劇場版グレンラガン紅蓮編』今石洋之/監督

前年も同じことを書いたが、作品というよりイベントして堪能させてもらった一本。
映画はダイジェストなので内容は駆け足で、序盤の重要エピソードであるアダイ村編とかがはしょられているのは仕方ないが、冒頭の新作映像部分などは大画面向けの迫力に満ちている。以前、同年輩のアニメ関係ライター相手に熱弁したが、GAINAX作品はいつも、とにかく「巨大なもの」それ自体が生み出す感動を描くのがものすごく上手い。
王立宇宙軍』のロケットしかり、『トップをねらえ2』冒頭の列車の車窓から見える大都市の摩天楼しかり、『新世紀エヴァンゲリオン』ではただの鉄塔すらカッコよく見え、『忘却の旋律』ではただの山間部のダムさえカッコよく見える。
これらは、ただ高度経済成長期センスを意匠・記号として取り入れた物ではない。主人公が最初に立っていた場所が凄いド田舎だったり、ひたすら暗闇の中で穴を掘るだけだったり、小さな自分と巨大なものとの落差が描きこまれているからカッコよく見えるのだ。これは、初めから何でも持っている人間ではなく、田舎者じゃなきゃ描けない想像力である。
最初の出発点には何もないからこそ、男の子は広い荒野や宇宙を目指すんだよ!
老人も若人も、失うことを恐れて既得権を保守してるだけじゃ何も始まらないのだ。
今年はたまたま、ある席で若手の漫画家やライトノベル作家などのクリイターといろいろ話をする機会があったのだが、わたしよりずっと年下の世代でも、地方出身、地方在住で『王立宇宙軍』が凄く好きだという人が複数いたのでちょっと嬉しくなった。
とりあえず、自分もそういう、生きたカッコよさが示せる仕事したいです。