電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

幽霊の正体が枯れ尾花であっても

ところで、本作品を上映中止に追い込んだかも知れない圧力の正体とは、いったい何だったのであろうか。
映画『靖国 YASUKUNI』の上映に関する問題でも、その少し前から話題になった日教組の教研集会場の問題でも、劇場なり、集会場のホテルなりは「右翼の抗議」をその理由にしているのだが、もし本当に右翼が暴力的妨害に出れば、正当な被害者として正々堂々と法的に訴えれば良いのだし、正当な被害に対しては正当な損害賠償請求が成立するはずだ。
だが、劇場なり、集会場のホテルなりが本当に憂慮したのは、右翼団体の暴力的な抗議それ自体より、そのことによって、映画の観客とか、近隣の住民とか、善良な一般人第三者ということになっている人間に危害が及んだ場合、自分がその責任を問われるということではないのか?
要するに、劇場なり、集会場のホテルなりは、右翼の暴力に屈したのではない、「安全」「無難」を絶対とする市民社会の価値観に屈したのではないか? ということだ。
――断っておくが、これは一切、右翼団体を擁護する意図ではない。
当然、本当に右翼が暴力的妨害に出れば、悪いのは右翼だ。だが、先にも述べたとおり、その場合は、正当なる被害者として正々堂々と法的に訴えることができる。
だが、映画の観客とか、近隣の住民が巻き込まれた場合「善良な一般人第三者を危険に晒すなんて」と世間のひんしゅくを買う。常識的に「空気の読める」日本人なら、こういうトラブルは一切未然に避けてやり過ごそうと思うだろう、右翼に言い訳を押しつけて。
こんなへそ曲がりな意見をあえて書いたのは、別に奇をてらいたいのではない。
言論の自由」とか「言論への弾圧」とかいう論議になると、どうにも皆、すぐ簡単に古典的でステレオタイプな思考に陥ってしまっていないか? と感じるからだ。つまり、どこかに悪い言論弾圧ファシストがいて言論を弾圧するのだ、という単純な発想に。
かつて1988年、当時の昭和天皇が危篤状態に陥り、さらに死去したとき、多くのTV局が娯楽番組を「自粛」したが、これはどうあっても「自粛」である。総理府宮内庁も「娯楽番組をやめろ」という明示的な命令は出していない。TV局が「空気を読んだ」結果だ(このときも娯楽番組をやったら、右翼が抗議に「来るかも知れない」、と右翼が言い訳に援用された)。