電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

真剣な人間は、おかしくて、哀しい

また、映画『靖国 YASUKUNI』の終盤では、戦前戦中の記録映像として、当時の軍人による、軍刀を使った訓練、軍刀を使った捕虜処刑の映像などがいくつか出てくる。
これに対しても「こういう映像は、日本の旧軍人をことさらにファナティックで野蛮な存在に見せようと強調している」と受け取って不快感を覚える、という人がいるのであれば、そのような考え方こそ、戦後の平和主義に毒された視点だろう。
あの記録映像の被写体となっている昔の日本軍人自身、つまり靖国の中にいる英霊は、ああいうのが一切おかしくなくて正しい、という価値観のもとで生きていた筈なのだから。
こういう映像に不快感を示すという人間は、戦前戦中の日本軍人は一切誰も殺さなかったとでも思いたがっているのだろうか? 靖国は軍人の墓だぞ、軍人の仕事は何だ?
こうした「英霊」の姿の一方、映画『靖国 YASUKUNI』には、「私の父や祖父は自ら望んで日本の軍人になんかなったのではない」という立場を唱え、靖国合祀の取り下げを望む台湾人元日本兵の遺族や徴兵されて戦死した元僧侶の遺族なども登場している。こうした立場の人間は、確かに、可哀想な少数者であると沈痛に同情する。
だが、この映画では、こういう少数者でもなく、はたまた金切り声を上げる見るからに奇異な右翼のようなファナティックな愛国者でもなく、たとえば『九段の母』(神社とお寺の参拝方法の違いさえわからないというド田舎者の母が、それでも、息子が祀られてるからと靖国に参拝する風景を歌った唄)で歌われているような「まったく普通の戦没者遺族」が欠落している印象が拭えない。
実際がところ、そういう「まったく普通の戦没者遺族」こそ、靖国神社に関する問題の本来の最大の当事者のはずではないのか?
しかし、そういう人間の多くはわざわざ自分の意見など言わないので、そういう人間が描かれない(描きようない)というのも仕方ないのであるが。
劇中で取り上げられている、靖国軍刀を奉納していた刀匠の爺さんは、別に善人でも悪人でもなく、ただの、昔はよくいた、自分の職分以上の難しいことは考えず、喋るのが下手な職人気質ではないかと思われる。こういう人間がカメラの前でうまく喋れない姿を晒すのはいじめに近い印象があり、この部分は、いささか見ていて辛かった。
が、今の日本人だと、なまじ「空気を読」んでしまうがゆえ、こういう「イタい図」は撮らない(撮れない)はずで、恐らく、そういうものをイタがって編集せず映してしまった点が、良くも悪くも、外国人の映画監督の手になるがゆえなのだろう。