電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

1.映画『イングロリアス・バスターズ』

監督:クエンティン・タランティーノ
ユダヤ人を殺しまくったナチス将校とそれをあらゆる手段で狩る連合軍特殊部隊の殺し合い。つまり、か弱い女子供がただ一方的に傷つけられるというお話ではなく、いくら残虐でも後味が悪くないバイオレンス映画。
劇中のナチハンターはどー見ても正義の味方には見えないサディストだし、若いドイツ軍人があまりに善人に描かれているので、一部では、この映画の人間観は中途半端で一貫性がないとか、どっちにも感情移入しきれないという声もあるようだ。でも実際、ナチスの軍人だって「普通の人」であり、それが「仕事」であれば平気で残酷なこともやったのだ。そして、復讐鬼と化した人間は、たとえ元は正義の復讐でも往々にして人間性を踏み外す。この映画はそーいう話なのである。
本作品をユダヤ人虐殺への怒りを描いた真摯な反ナチ映画と見なす人もいるようだが、タランティーノは明らかに、「正義の復讐なんだからどんな残酷なことをしてもOK」という大義名分で楽しげに暴力を描く「不謹慎な映画」を作っている。
しかし、本作の随所に漂う「不自由感」は真摯にリアルだった。
たとえば、ナチスに家族を殺されて復讐心に燃えるヒロインのショシャナに、それを知らない若いドイツ軍人フレデリックが純粋な善意で好意的に接する場面。
このフレデリック君が「悪い奴じゃない」のは明確だが、彼は相手に対等に接しているつもりで、しかし自分が元より征服者、占領者の側の立場にいることにまったく無自覚だ。そしてそんな「鈍感な善人の傲慢さ」に無言で苛立つショシャナ役のメラニー・ロランの眼の演技が本当に凄まじい。
はたまた、ナチス占領下に潜入した英軍士官ヒコックス中尉とドイツ系の同志が、子供が生まれて喜ぶ無邪気なドイツ兵やSS将校の前で必死に正体を隠す場面。内心では嫌悪するドイツ軍人相手に無理やり愛想を合わせる複雑な表情や、発音のおかしなドイツ語を指摘されて焦る姿も迫真の緊張感だ。
従来の戦争映画では米英兵とドイツ兵が普通に会話するのに、本作品は、このほかの場面でも言語ギャップ(自国語を禁じられる不自由!)にこだわった場面は多い。
こういう面従腹背を強いられてる不自由感や気まずさ描写のうまさって、いじめられっ子のセンスだろう。クライマックスでヒトラーたちナチス幹部(いじめっ子)を抵抗できない密室の劇場に閉じ込めて全員焼き殺してしまうようなノリも含め。
この映画、タランティーノだからいつものことだけど、ほぼ善人はいない。
ブラッド・ピッド演じるアルド中尉らのナチハンターは、現実のイスラエルモサド関係者が見たら激怒しそうな、調子こいた悪ノリ集団だ。一方、本作品ではナチス幹部の罪は直接に描かれてない、彼らは一方的に殺される役である。だが、彼らはまさに、自分自身の手は汚さず書類一つで虐殺を命じ、自分らは芸術を愛する文化人のように振る舞っているからこそ、焼き殺されてザマーミロなのである。
そんなわけで俺は見ていて爽快だったが、これを手放しに爽快と言うのは、先にも述べたけれど、本来は恥じるべき不謹慎な感情だろう。
しかし、さりげなく、タランティーノなりのストイシズムと倫理観らしきものも感じられた。端役だが、ヒロインのショシャナを支えるマルセルという男の存在だ。彼は黒人だが、ショシャナは彼を昔からの従業員として信頼している。マルセルは有色人種を迫害するナチスの占領下でそんな態度を取る彼女を深く愛し、彼女の狂気じみた復讐に忠実に従い運命を共にする。結果的にかも知れないが、この人物だけは一切ちゃかさずストイックに描かれていた。マルセル役のジャッキー・イドという人は、旧仏領で今もフランス語が使われる国ブルキナファソの出身だという。
うがった見方をすれば、ナチス占領下のフランスだって、アルジェリアなどアフリカ各地に植民地に持つ帝国主義国だった。タランティーノは「隠された真の弱者」にストイックな正義感を託したのかも知れない……と思ったけど、パンフレットではせっかくタランティーノ歴年の盟友で民族問題の専門家の町山智浩氏が解説してるのに、ここには触れられてなかった。少し残念。