電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

真の言論弾圧の形はそんな単純なものではない

深夜アニメの『図書館戦争』を観ると、有害図書を葬るため軍隊が日常的に出動するとかいう世界観を描いている。たぶん、この作品は別に思考実験的なSFとかではなくアクション物を目指しているのだろうが、なんという古典的な管理社会イメージであろうか(まあ、これで『華氏四五一度』を初めて知って読む若い人とか現れてくれれば、それ自体は結構だとは思うけれど)。
世のオタな若者の右傾化とやらが唱えられる中、なぜこんな作品がベストセラーなのか不思議だが、まあ、昔から「自分は世の少数派である」という自意識が強い人間には、自分を弾圧される側に置く話に自己憐憫自己陶酔するのが好きな傾向があるからだろうか。
かつてはそういうオタな若者が想定する、自分を弾圧者する者のイメージといえば国家権力側だったが、右傾化しているとかいわれる今の若いオタな若者では、なぜかそれが在日や同和などの「反日」勢力にすり替わっただけで、心性自体は同じなのかも知れない。
いずれにせよ「『弾圧される可哀想なボク』という物語が好き」という点では、どっちも自虐好きのマゾヒストじゃないの? と思うのだが。
しかし、世の中そんな、誰が弾圧者か簡単にわかる言論弾圧ばかりだったら苦労はしない。
本当に巧妙な言論統制とは、言論統制が行なわれているという事実にさえ気づかれないようにやるものだ。
オーウェルの『1984年』では、国民を絶え間なく監視するシステムとともに「新語法(ニュースピーク)」により、世のあらゆる出版物から、反国家的な思想に結びつきそうな文言だけが随時こっそりと削除され、反国家的な思考発想がふと自然に芽生えることさえ一切ありえないように情報操作されている。目立たぬように、しかし確実に。
具体的に言うと、『1984年』のイングソック国(←ここ正確には「オセアニア国」、INGSOC(イングソック)は作中の英国を独裁支配している党組織)の辞書の「自由」という項目には、荷物から手を離したら手が自由になるとかいった物理的、物体的な自由という意味しか載ってない。精神的な自由、政治的な自由、という概念自体が一切ないことにされている。こういう環境で子供が育ち、さらにその子供、孫の世代になれば、精神的な自由、政治的な自由、というものを思いつくことさえできない人間が多数になる、というわけだ。