電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

考える自由の能力なくば言論の自由は持ち腐れだ

それに、『1984年』のイングソック国オセアニア国や北朝鮮のような独裁国ならいざ知らず、日本のようなタテマエ上「自由」な国では、世の中は別に、権力者だけの意志でも回っていない。
先の、映画『靖国 YASUKUNI』を渋った劇場や、日教組に教研集会の会場を貸すことを渋ったホテルは、右翼に屈したというより、映画の観客とか、近隣の住民とか、善良な一般人第三者ということになっている人間に危害が及んだらひんしゅくを買うことを恐れたのではないか、という問題もそうだが、わかりやすい弾圧者ばかりでなく、世間の空気というものも時として大きな圧力になる。
が、たいていの左翼は「悪いのはいつも国家権力」「民衆は弱者で正義」という大衆性善説を信じたがっているから、民衆の自発的意志というものが必ずしも善意ばかりでないことを平気で見落とす。
2004年の春に起きた、イラク人質事件(通称「三馬鹿」事件)のときが良い例だ。
自作自演説&自己責任論による人質バッシングは、どうあっても、良くも悪くも、インターネットを中心とした大衆的な世論の自発的な声として現れた。が、阿呆な左翼には、これを必死に首相官邸による仕掛けだと信じたがっていた連中も少なくなかった。
「悪いのはいつも国家権力」「民衆は弱者で正義」だったら、もしも次に関東大震災が再び発生したとき、庶民大衆の自発的な反応で朝鮮人虐殺が起きたらどうすんだよ?
竹中労によれば、現実の大正の大震災では、なんと内田良平ら職業右翼のほうが「『朝鮮人が井戸に毒を入れた』などというのはデマだ。落ち着け」と説いて回ったそうだぞ。
――どうも今日は、あたかも右翼を利するようなことを書いているように誤解されそうだが、別にそういうことが言いたいのではない。
映画『靖国 YASUKUNI』を反日プロパガンダ映像と受け取るのも、愛国者の堂々たる姿を描いた映像と受け取るのも、観る人間の解釈と想像力ひとつだ。
もし実際に言論弾圧なり検閲なりで限定されたプロパガンダ情報しか与えられない状況にあっても、それでもなお自分なりの判断ができる、という精神の自由こそが、単純即物的な自由よりも重要な点ではないか。
「国家権力の言うことだからケシカラン」とか「サヨクだからケシカラン」という単純な二元論図式は、場合によっては、せっかくのその想像力の自由をみずから曇らせて、限定された情報に接してもなお、ちゃんと見ようと思えば見えるものものさえも見えなくしてしまうかも知れませんよ、ということである。