電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

戦後という、成り上がりと物欲の自由

立喰師列伝』を観た日、帰りにBOOKOFF雁屋哲由起賢二野望の王国』全巻を立ち読みするという無謀に挑戦してどっと疲れた。これもまた雁屋哲による「壮大な偽史としてのオレ戦後史」なんだろうが、権力を目指す大人の世界を舞台に少年ジャンプ的バトル漫画をやると、こういうふうに話がインフレ化する、というモデルだな、こりゃ。
これは要するに、日本の既得権階層ということになってる東大法学部出身者・自民党・官僚機構、それらと癒着する右翼やら暴力組織やら宗教団体やらに、学生あがりの成り上がりが挑む話なんだが、すべて悪人しか出てこないので、少年ジャンプ的バトル漫画としては面白くても、いい加減ゲンナリする。
なんつうか、全登場人物、権力を得るため殺し合いだの裏切りだのばっかりやって、止めに入る奴がいない、身を引くということがない、つーか「分相応」という考えや、権力握って何がしたいのかという美意識が毛頭ない。これを、戦前なら、皇室だの公家だのの伝統権力や公の軍隊がドンと控えているから、そうそう成り上がり者が暴れ狂うわけには行かず、歯止めがかかったろうが、そういう重しなくなって欲望追求だけの自由が認められるとこう荒む、ということかなあ、と言ってみるのは、野暮な発想であろうか。
たまたま最近、鈴木清順の『東京流れ者』(1966年)やら岡本喜八の『暗黒街の顔役』(1959年)みたいな、東映実録路線(『仁義なき』シリーズ他)以前、ということは、つまり全共闘の暴走と崩壊以前に作られた、アメリカギャング映画風のフィクションの入ったヤクザ映画を見返してたわけだが、その差は歴然である。この辺の作品では、まだなんか、主人公が戦前的仁義やストイシズムの側に立って「分」を守ろうとし、それゆえ、戦後的近代的な欲望追求拡大路線の組織方針と対立して淋しく孤立する、というお話だった。
野望の王国』が描かれたのはロッキード事件田中角栄逮捕の翌年の1977年から、中曽根内閣発足の1982年だという。
野望の王国』の主人公、橘と片岡のコンビは、急速に権力の座をつかもうとした末、片岡は死亡、橘は生き残って権力を手にしながらも、ほとんど唯一親愛の情があった兄と妹も死なせて茫漠たる思いに至る……単に人が死なないってだけで、堀江貴文ヒューザーの小嶋にアイフル、バブルとその後の成り上がり紳士らも同じようなものかもしれない。
これもまた戦後である。