電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

労働者あがりM

PHP文庫『文蔵』3月号の松本清張特集(isbn:4569665160)をちょこっと手伝いました。
本当は、松本清張に関してはもっとやりたいネタ(清張自身の年譜と人脈交遊録、特に、宮本顕治と逝けダサイ臭い…じゃなかった池田大作を対談させたという驚異のエピソードとか)は多数あったんですが、紙数とスケジュールの都合で今回は見送り。
昨今、ネット世論の一部では、戦後日本の文化人の過去の仕事をほじくり返して「ブサヨク」レッテル貼りが流行のようだが(まあしかし実際、大江健三郎なんか、今振り返ると、重信房子をモデルにした戯曲とか、本当に妙なものも書いてるけど)、清張は、昨今の再ブームの中、不思議と「ブサヨ」呼ばわりされない作家である。
率直に言って、清張ノンフィクションの代表作『日本の黒い霧』は、現在の視点で見れば変な部分もある。当時、消息不明になっていた共産党伊藤律に関する記述など、推測で書かれた部分もあるので、後年に発覚した事実とはぜんぜん違うし、朝鮮戦争に関する記述など、少々北朝鮮軍を買いかぶりすぎでないか、という表現も少なくない(ただしこれも、執筆時は圧倒的に情報が不足していたためでもある)。
だが、わたしはこうした細部のデティールミスを突いて清張を貶める気は毛頭ない。
清張作品には、細部の瑣末なデティールミスを補って余りあるだけの、恐らくは作者自身の人生経験に裏打ちされた全体の粘着的な精密さとリアリティと面白さがあるからだ。
清張は印刷屋の労働者あがりで大学も出ていないが、戦前からの共産党員で、生涯を通じて反権力社会派作家と呼ばれた。清張は「サヨク」ではなく「左翼」なのである。
昭和初期当時、親の金でヌケヌケと帝國大學に通いながら当世流行だからとマルクス主義にカブれ(ま、90年代に宮台真司が愛読されたのと似たようなものだ)特高の手が回れば実家に泣きついて転向……とかいった手合いとはぜんぜん違うのである。
(労働者階級出身の文化人、という類型で、わたしが清張と通じるものを感じるのが、ジョージ・オールェルと青木雄二だったりする)
そのおかげでか、清張は大衆の心理というものがよくわかっている。生き延びるためには権力に尻尾を振ったり、自分の都合悪い過去は隠蔽しようとするような人間の心理も精緻に描かれているおかげで、清張作品の多くは、単純な「権力=悪」の勧善懲悪図式にも堕してもいない。
こういう作家が失われて久しいのは、日本にとって残念としかいいようない。