電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

露悪と礼節

先日、あえて学生時代の悪事のごく一部を自白したが、昔はわりと自己露悪的なところが強く、他人から指摘されなくても自分の過去の悪事など隠さず自己暴露していたほうだった。
なぜかというと、他人サマのことをいろいろエラそうに論評するくせに、では、それを言ってる自分はナニサマか? と問われた時には黙る、というのは、人間として不誠実な態度で、まず自分も充分しょーもない奴であると明かしてから話をするのが正直だと思っていたからだ。
大体そもそも、この世に「つねに公正客観中立的で透明な空気のような人間」など存在しない。匿名で自分のことは口をつぐみ常に他人のことだけ語っていれば、さもそのように振るまうことはできる。だが、実際は、誰しも多少なりともその人固有の歪み偏りがあるはずだろう。べつに、だから悪いというのではなく、その突き合わせによって最大公約数としての世間の基準というものはできているはずである。
と、いうわけで、昔のわたしは、他人にツッコミを入れようという時は、聞かれなくてもわざわざ「いや、こう書いてる俺も〜〜なんだけど」と、いちいち必要以上に正直に自己暴露しながらものを言うというクセがあったわけである。
が、そのうち、いつの間にやら、ブログやSNSや匿名掲示板の人生相談など、ネット世間では、鬱とか引きこもりとかニートとか無職とか非モテとか、わたしなんぞ以上にその手の「ダメ人間自己露悪」のようなものが溢れ返るようになってくると、却ってそうした、自己の恥部を意識的に強調して露悪するという姿勢に、少し疑問を抱くようになってきた。
昨今ネット世間に溢れる、その手の、鬱とか引きこもりとかニートとか無職とか非モテとかの、自分がいかにダメ人間であるかを自ら記したような個人ブログやSNS日記の中には、確かに、真摯で誠実なものも少なくないだろう。
だが、意地悪く言えば、そうやって自分の恥部を、人から突っ込まれる前に自分からバラすことで、他人から許容して認めてもらおうという、さらに言ってしまえば、そうして自己憐憫的な自己顕示をすることで、自発的に前向きな改善の意志を持とうとしないことの言い訳をしているのではないか、としか思えぬ場合も少なくない。
ミもフタもなく言ってしまえば、本当は死ぬ気も無いのに死ぬぞ死ぬぞと言って周囲の同情を得ることが自己目的化した自殺マニアのリストカット少女みたいな心性、ということだな。
わたしがいわゆる非モテ論壇というものにあまり同感してないのも、この点にある。
自分の現実を逃避せず直視するのはそりゃ重要だが、モテへんという現実しか見ず、それ以外のことに眼を向けようとしないというのも本末転倒の逃避ではないのか。
――と、以上、他人のことをエラそうに書いている自分はナニサマかといえば、平日昼間から中野ブロードウェイ西友地下食品売り場に行き、通りすがりの見ず知らずの赤の他人のおばさんにうっかりぶつかりそうになり、避けようとしたらなぜか決まって必ずおばさんのほうも同じ方向に避けようとするので、結果的に意地悪通せんぼ野郎になってしまい、へこへこと平謝りしながら、心の中では「嗚呼、あのおばさんはきっと俺のことを『ああキモい、怖い、きっとこういう男が痴漢とかストーカーとか幼児誘拐とかするのよ! 絶対そうに決まってるわ!!』と思ったに違いない!」とか一人勝手に決めつけて憤慨するのだが、さりとてどう考えても相手のおばさんは悪くないので「俺は悪くない! だが、あのおばさんも悪くない! ……では、悪いのは、えーと……?」と考え、結局、ぜんぜん関係のないもう10年も前にたった数日付き合わされた悪徳商法団体の幹部を脳内で銃殺刑に処して毎回やり場のない怒りを晴らすのだが、自分のアパートに帰って30分後にはへろりと忘れ、翌日また同じ事を繰り返している……とかいうような次第であるw
って、こんな話↑、面白れぇか?
でも、たまにはこーいうことも書かないと、ひたすらエラそうに歴史や文学や漫画の話とか自分の執筆仕事の話ばかりしてるのもどうもウソ臭いし、逆に、過去の何度かの目立った奇行ばかりが強調され、骸吉君は24時間365日全力で蛮勇だけを繰り返してるかと期待され過ぎるのも、買いかぶりというもので、難しいものである。