電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

観客に誓う国

PHP文庫『裁判所へいこう! 』(asin:4569669220)刊行。
要するに裁判傍聴入門本ですね。
今回は、冒頭の、そもそも裁判所とはどのような場かといった概説のほか、刑法裁判の各種例(殺人罪、放火罪、窃盗罪、詐欺罪etcetc)、世界の法学史上のトリビア(珍判決の例、動物や無生物を被告にした欧米の宗教裁判の歴史、今でもある決闘罪etcetc)、あと巻末の裁判官鑑賞参考用ブックガイド&シネマガイド(『半落ち』『それでもボクはやってない』etcetc)などを担当。
本書の執筆中は、実際、何度か東京地裁に見学にも行った(傍聴マニアの間では有名な阿蘇山大噴火氏とエレベーターの前ですれ違ったりした)。
被告は悪人そうに見えない場合も多い。家宅侵入強制わいせつ事件の裁判を見たら、意外に傍聴者に女性が多く(他人事ではなく、女性の敵許すまじ、という意識のためか?)、また被告が意外にイケメン風だったり、大麻所持の略式裁判で執行猶予判決の被告がアッサリ家族と一緒に帰るのを見たり、はたまた、裁判官や検事にもいろんな人間がいるとか、いろいろ勉強になりましたよ。
――ところで、傍聴めぐりをしていて、ひとつ気になった点がある。
いくつかの裁判では、被害者や関係者などが証人として出廷していたが、さてこの証人は、裁判官の前で「偽証をしない」と宣誓させられる。
さて、このとき証人は、何に向かって宣誓しているのか?
バテレンの国であるアメリカでは、聖書に手を置いて宣誓するのが常である。厳格な一神教の国であるから、裁判官という「人」は騙せても「神様」にはウソはつけない、という価値観がある。が、日本にはそんなものはない。
では、裁判官に向かって誓っているのか、というと、どうもハッキリそうも見えない。実際問題、エラい権威に弱い日本人といえど、裁判官を神の代理人とまで思っているだろうか?
あえて言うと、日本では、証人の宣誓は、まさに傍聴席の観客の無言の眼差しに対して行なっているように見える。
要するに、唯一神ではなく、「世間の目」に対してはウソをつくとは言えない、という無言のプレッシャーというやつである。
裁判とは本来、物的な証拠の論証によって行なわれるものだが、日本では、裁判もまた世間論、「場の空気」論と無関係ではない。
実際「傍聴席に人が少ないと裁判官も本腰を入れない」とは、複数の先行類書でも目にしている。
ところで、本書中では、わたしの担当執筆箇所ではないが、2009年から導入の裁判員制度についても触れている。
わたしがひそかに敬意を示しているライターの青沼陽一郎氏(『諸君!』や『SAPIO』はよく中国を批判しているが、この人は、あえてそうした保守系メディアで、今の日本の食産業がその中国に依存してしまっているか、という問題を実に詳細に書いている)は、裁判員制度の導入に批判的である。
わたしもこの制度の問題点の可能性については、先日も書いた。前にもこんなことを考えたことがある。
恐らく、裁判員制度の導入は、日本人の気質、世間論、場の空気論の問題を"良くも悪くも"明らかにするだろう。
一般人の裁判参加に際し、場の空気や同調圧力にも飲まれず、プロ裁判官の誘導にも引っかからず、本当に自分で判断する力を身につける方法はあるか?
いささかこじつけがましい言い方になるかも知れぬが、それはまさに、法廷傍聴してみることかと思える。
というわけで、興味のある方は書店でお手にとって頂いて、ついでに後日裁判所に言ってみてくれることをお勧めします。