電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

「軽薄短小」「情報化社会」はもう古い?

『昭和三十年代主義』の後半では、宮部みゆき模倣犯』に登場する犯罪者「ピース」を例に引きながら、昭和三十年代的な堅実さの対極というべき、実体的労働を軽蔑して情報を操る立場にたつことに優越感を覚える心性を容赦なく批判する。
「ピース」は、典型的な、世をナメた劇場型犯罪者だ。彼はせっかく学歴は優秀なのに真面目に働こうとせず、社会的には無力なニート野郎だが、自分の起こした犯罪で世間が騒ぐことで、自分が世の中を操っているような優越感に浸る。
相変わらず2ちゃんねるでは「○○を爆破する」「××を殺害する」式の予告イタズラ(どうせ本当は実行する度胸などない)が絶えないが、その動機の大半も、自分の書き込みで世間が右往左往することで得られる、自分が世界を操っているような全能感だろう。
例によって浅羽は、こうした心性の背景に「実体的で地道な肉体的労働=ダサい/情報や数字を動かすだけの抽象的労働=カッコいい」という、重厚長大な産業より軽薄短小なマスコミギョーカイなどがもてはやされた1980年代以降の風潮を鋭く指摘する。
(このへんは、わたしが以前、高村薫作品での「職業観」を論じた短文とも問題意識が重なる。まさに神の視点を気取れる職業などない、という話だ)
1980年代的な犯罪者「ピース」が徹底的悪役として描かれ、それこそ昭和三十年代的な、下町の地道な職業人をヒーロー側に配した『模倣犯』は、大ベストセラーとなった。
さらに浅羽は、渡辺和博&タラコプロダクション『物々巻』を手がかりに、1960年代、70年代、80年代と、次々に「ナウい」ものが無理やり作られてきたが、もう消費文化の「ナウ」開拓は頭打ちで、定番、オーソドックス、トラディッショナルへの回帰が起きている、昭和三十年代懐古ブームもその流れにある、と分析する。
(このへんも、手前味噌なことを言えば、わたしが先日書いた見解そこからの打開案と重なる。が、そこは浅羽先生、より緻密に分析している)