電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

「役」「キャラ」あってこその個人?

あと、個人的に『昭和三十年代主義』を補完するようなことをあえて言えば、消費マーケティング的な観点で見ると、昨今の昭和リメイク映画、TV映画の全盛状況は、作り手、売り手の立場では、リスクの大きいまったくの新製品より過去の売れ行き実績から安心が見込める商品、という安定志向、消費者の立場では、未知の新商品より、「前から知っているもの」のほうが親しみが持てる点もあるのではないだろうか?
さらにいえば、60年代、70年代、80年代…と、サブカルチャーは常にその時代の若者向けに発達してきたが、少子高齢化で、若者向け市場自体が先細りという問題もある。
アイドル歌手なんてのは常にそのときの10代の若人を客にするのが本来の売り方だが、先ごろモーニング娘。は、ファンに向けて「一緒に歳をとっていきましょう」とアピールしたそうだ
ちなみに、懐古ブームは日本に限らない。欧米でも近年はリメイク映画ブームだ。これは欧米でも、先進国はどこも日本と同様、「ナウ」のネタが尽きて内省の時代に入ったということか? とも解釈できるのだが、今が経済成長期のはずの中国でも文革懐古商売が人気などという現象があるらしい。
これは、産業発展と格差拡大が急激に進む現在の中国でも、社会に一体感があった時代への郷愁が起きている、ということであろうか?
そう、一体感、これは重要なポイントだろう。
『昭和三十年代主義』の後半では、地方都市での若者グループを描く『木更津キャッツアイ』のヒットから、地道な地元サポーターに支えられたJリーグ人気など、小規模だがそれゆえ実体的な地元意識による一体感の復権に着目している。ここには、地域スポーツが求心力を持った近年の例として、四国・九州アイランドリーグも入れてよいだろう。
一体感の復権について、『昭和三十年代主義』の終盤では、福田恆存『人間・この劇的なるもの』からこんな一文を引用している。

「私たちは、一個の蓋が全体から離脱して自立し得るとは考えないが、一個の人間はそれをなし得ると考える」
「人格は完全な自律体である。が、それは全体なしですまし得るということを意味しない。むしろ反対である」
「それは部分でありながら、全体を意識し、全体を反映し、みずから意志して全体の部分になり得るということなのだ」
(p372)

ここでいう「全体の部品」とは、当然、差し替え自在のパーツではなく、もっと実体的で顔のある役割が意識されている。
しかし「人間はみな生まれながらに自由な独立した個人であるべき」と考えている人間には、こういった「人間は社会の部品としての役割を果たしてこそ価値がある」といったような考え方ははなはだウケが悪い。
だが、世の中のすべての人間が、社会の部品としての役割を果たすより、自立した個人として生きようとすれば、日本国は、1億2千万人のロビンソン・クルーソーが、一人一人自給自足しなければならなくなる。そこには役割分担がない以上、助け合いなどないだろうし、お互いにお互いを敵だと思って殺し合いが起こってもおかしくない。
これは極論だが、こう考えると「俺も世の中に役割があってよかった」と思えるものだ。
「全体の中の部品」などというと、人間を機械扱いしているようで、反発する人もいるだろうが、浅羽はこれを、適切な「キャラ」を楽しんで演じること、と説く。
そして、その例として、筒井康隆の小説『美藝公』を挙げる。これは、映画が社会の中心にある世の中を描いたお話で、いわば、あらゆる人間が、映画の出演者や、照明や撮影といった役割を自ら意識して楽しんでやっている世の中、というべきだろうか。
――とまあ、わたしとしては(10数年来の浅羽読者である点を差し引いても)、自分が日頃から考えていたことと重なることをより綿密に説いてくれた点で興味深い書ではあるが、果たして現在の多数の読者に歓迎されるかは難しい。
だが、景気低迷と格差拡大、下流化といった現実状況に対し、一見耳ざわりの良い楽観論よりも、本書は、さまざまなヒントを秘めているのではないだろうか? と述べておく。