電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

『攻殻機動隊 S.A.C』は『怪奇大作戦』である

わたしが小学生のころ好きだった特撮作品で『大鉄人17』という巨大ロボット物があった。
主役メカの17(ワンセブン)というのは、鉄人28号のような主人公が遠隔操作で操るロボットだ。最終回では、主人公の少年は相棒ワンセブンともに敵のボスに特攻して死のうとするのだが、土壇場でワンセブンは主人公を逃がして自分だけ自爆する。
のちに再放送で観た実写版『ジャイアントロボ』の最終回もこれと同様の展開だった。

異形のヒーロー、自己犠牲のヒーローはなぜ消えたか?

思い返すと、1970年代後半ごろの当時の子供番組はこんなんばっかりである(最終回で主要キャラが特攻して死ぬ『無敵超人ザンボット3』とか)。
当時の刑事ドラマ、『太陽にほえろ!』とかでも、主役側のキャラはよく死ぬものだった。
当時のこうした自己犠牲的な最期を遂げるヒーローは、たいてい、社会からのはみ出し者、異形の異物としての陰を背負ったキャラクターである。そんなヒーローの敵もまた、主人公の陰画のような社会のはみ出し者が悪の道へ進んだというような図式だった。
このパターンをもっともよく示すのが、さらにもうちょっと前の1960年代の作品で、社会に怨恨を抱く異形の犯罪者がオンパレードの特撮犯罪ドラマ『怪奇大作戦』だろうか。
――しかし、1980年代以降、こういうヒーローの物語は流行らなくなり、むしろ「等身大」を意識したキャラクターが普及する。それは社会が清潔に均一化され、世の中にわかりやすい差別や格差、そして死と危険が目立たなくなったことの反映だったようだ。

タチコマジャイアントロボである

だが、ヘソ曲がりのわたしは、そんなフツーの人間ばかりで、人の死なない安全な話が面白いかね? と思ってた。
すると、幸か不幸か、バブル崩壊を経て21世紀を迎えて以降、差別と格差は復活し、どうやら異物との抗争/共存が再び課題となっているらしい。
2004年に『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』の第2話「暴走の証明」を初めて観たとき「え、これなんて怪奇大作戦?」と思った。病弱な肉体にコンプレックスを抱き、みずから戦車の体に頭脳を移して故郷の町を暴走する青年……これは士郎正宗のマンガ原作版とも押井守の映画版とも違う、まるで『怪奇大作戦』のワンエピソードではないか!
すると『攻殻機動隊 S.A.C』の主役メカたる思考戦車ロボットのタチコマは、最終回間際で主を守るため敵に特攻自爆してしまった。まるで大鉄人17ジャイアントロボのごとく。
ゼロ年代の最新テレビアニメだった『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』という作品を、こういう視点で評価することに違和感を思える向きもあるかも知れない。
しかし、改めて考えても、こういう見方はあながち間違いではなかったと思える。

構想一年「タチコマ本」ついに完成

――といったわけで、随分と前フリが長くなったが『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX TACHIKOMA'S ALL MEMORY しょく〜ん!』(isbn:9784877770914)刊行。
本書は『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』を、劇中の思考戦車タチコマを中心に振り返った一冊です。
詳細はコチラ(株式会社樹想社公式サイト)
本書は劇中のエピソードに沿った「TACHIKOMA SIDE」と、スタッフや関係者が作品を語ったり描いた「HUMAN SIDE」からなり、要するに前からも後からも読めるリバーシブル構成。
今回、当方は「HUMAN SIDE」では、タチコマの中の人の玉川紗己子女史、メカデザインの寺岡賢司氏、おまけコーナー「タチコマな日々」監督の橘正紀氏、音響監督の若林和弘氏などのインタビュー記事構成を担当。各氏とも「今だから聞ける」話が満載だ。
タチコマの声の演技の試行錯誤から、3DGCスタッフの描画技術の向上とともにタチコマも表情豊かになっていった経緯や、あまりタチコマが可愛いキャラになったり泣きな展開でもベタベタなので、むしろそれを抑えたという監督や脚本のせめぎ合いなど、多くの人々の技量の化学反応から『攻殻機動隊 S.A.C』シリーズという作品と、タチコマというキャラクターが生まれ、進展した経過を覗かせて頂いたのは有意義だった。
なんにせよ、多くの人々の手で何かが作られてゆく過程の話、ってのは面白いもんです。
また「TACHIKOMA SIDE」では、各シリーズで一話完結エピソードの回を中心に20本ほど記事構成を担当してます(ま、タチコマ君の記憶メモリの再構成ですけどね☆)
本当は『攻殻機動隊 S.A.C』シリーズのブルーレイBOX発売に合わせて刊行の予定で一年前から進めてた企画なんですが、まあ、延びた分だけ内容は充実し照れると思います。
とりあえず、タチコマファンなら、本書「HUMAN SIDE」収録の大河原邦男タチコマ(重量50トンはありそうに見える)とか、頭にネギの生えた「初音ミク」風?KEI氏タチコマ、「やわらか戦車」風?ラレコ氏タチコマなどは必見の代物と太鼓判を押すw

生きてるから死ぬ だから尊いもの

さて、生意気な口をきく四本脚のロボット戦車タチコマは、なぜこんなに人気のあるキャラクターなのだろうか。
それは彼らが、人間と異質な存在でありながら人間に歩み寄ろうとし、そして人間でもそうそう行なえないような自己犠牲の精神を持つにいたったからではないか。
冒頭で大鉄人17だのジャイアントロボと書いたのはほかでもない。
本書のインタビュー取材で『攻殻機動隊 S.A.C』の神山健治監督から、タチコマの成長と自己犠牲にいたるドラマは当初から意識していたもので、それは『鉄腕アトム』や『ジャイアントロボ』でも描かれた、本来なら生命がないもののはずの「ロボットの自己犠牲」というパターンを踏襲したという証言を得た。
なんだ「タチコマジャイアントロボである説」で正しいんじゃん!
神山監督によれば『攻殻機動隊SAC』のとくに『2ndGIG』シリーズのテーマは、人間の外見の器と魂のあり方の関係、精神と肉体は不可分なのか? といった点だったという。
なるほど『2ndGIG』の中心的な敵キャラだったクゼもゴーダも、まるで70年代のヒーロードラマの悪役のように、外見からして「私は疎外感抱えた人です」という異形の異物だ。彼らは異形のサイボーグ刑事チーム公安9課の少佐やバトーの陰画なのだ。
すでに同じことを述べている人もいるが、テレビシリーズ『攻殻機動隊 S.A.C』は、むしろ『太陽にほえろ!』のよーなメンタリティの作品なのである。
テレビシリーズ『攻殻機動隊 S.A.C』は「精神=記憶は差し替え自在の情報に過ぎない」とかいう結論にはなってはいない。むしろまったく逆だ、人間の魂(ゴースト)は差し替えのきかない肉体に刻印され、生命は差し替えのきかないからこそ尊いのだ、と。
生きているから死ぬ、でも、だから生命は尊い。だからタチコマは、みずから核ミサイルに突っ込んで死ぬとき「ぼくらはみんな生きている」と歌ったのではないか?
今回、わたしはこのタチコマ本の仕事で、劇中に登場する「資本主義という亡霊」(←当然「共産主義という妖怪」に対応)とか「リゾーム構造」がどうしたとかニューアカ現代思想みたいなこと書いてますが、根底に置いていたのは、こうしたメンタリティでした。
――とかいうような俺のウザい話はどーでももいいので、ひとまず、タチコマの好きな方は一読してくださると嬉しいです。