電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

歴史のある白人/歴史のない有色人種という逆説

畏友ばくはつ五郎氏の勧めで映画『グラン・トリノ』を観る。が、まじめな感想文はすでに彼が書いている。
http://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20090502
なので、当方はしょーもない部分の話をする。

アメリカのヤンキー(←同語反復)

まず、前半のアジア系(モン族)とヒスパニック系の不良グループがののしり合う場面で、世界どこでも不良ってこんな感じだよなあ、と、わけもなく嬉しくなった。もちろん、こういうすさんだ不良が身近にいて自分が絡まれたりするのはゴメンだが。
で、なぜコイツらはすさんだ不良なのか?
クリント・イーストウッド演じる老白人の主人公ウォルトは、若い頃には「アメリカの大義」を信じて戦争に行き、その後は由緒正しきブルーカラーとして汗と機械油にまみれてメイド・イン・アメリカの自動車を作り、家の庭でも家電製品でも全部自分で手入れする。
アメリカは開拓の国だ、もともとは先住民のものだった土地を戦って手に入れ、家でも何でも、何もないからゼロから自分で作るものであり、そのことに労働の喜びを感じるというライフスタイルを百年以上かけて築いてきた。
――が、そのような、本来は自分で手を動かすことで成り立ってたアメリカ白人のライフスタイルの誇りは、戦後の急速な産業化と、先ごろの金融破綻にいたるその失速で、内部から崩壊してしまった。
アジアやヒスパニックや黒人は、そうして没落した白人の隙間に入ってきたわけだが、彼らは、アメリカに来た時点で本来の民族文化の足場なんか失って、アメリカ産業の結果部分のそれもジャンクな最末端だけ食らって育つことになった。さらにアメリカだから、学にも職にもあぶれたボンクラでも、ドラッグも銃も簡単に手に入るからタチが悪い。
しかし、この映画では、だからこそ、もはや滅び行く白人である老いたイーストウッドが、その百年以上かかって作られたアメリカ流ブルーカラー男のスタイルを、若く何もない有色人種のボンクラに継承させようとする、というわけだろう。これは単純な白人文化の押しつけではない、自分の生活を自分で作ることの継承なのだから。

余談1

この映画でのイーストウッド演じるウォルト爺さんは、『オバケのQ太郎』でいうところの神成のおじいちゃんみたいに見えなくない。オバQでの神成の爺さんは若いアメリカ人のオバケであるドロンパをホームステイさせてたわけだが、そう考えると立場が逆転だ。
従来、老人の知恵を授けるのは東洋人の側だった。1980年代には、白人少年が空手を習う『ベスト・キッド』なんて映画がヒットしたっけ。それからすると隔世の感という皮肉。

余談2

わたしが見に行った映画館ではけっこう若い客も入ってたんだが、アジア系顔のモン族のおばちゃんたちの姿(とにかく大勢で群れて、客人のウォルトに「ホレ、これ食いなさい、うまいよ」とばかりに、やたら大量の料理を出す)には、劇場内でも失笑が聞こえた。
この場面はわたしも失笑が漏れずにいられなかった。
ひょっとすると、若い観客は「ああ『中国人』ってこうだよねえ」と笑ったのかも知れないが、わたしは断固「ああ、日本でも田舎のおばちゃんってこうだよねえ」という意味である。いや、だって本当にあんな感じだ(った)ぜ、日本のおばちゃんも。

余談3

ところで、イーストウッド演じるウォルト爺さんは、かつて朝鮮戦争で勲章もらった元英雄という設定で、それが若造を鍛えようとする。
それでふと「あれ、これって『ハートブレイク・リッジ』のハイウェイ軍曹の、さらにその後、とも読めなくない設定じゃん!」と気づく(これは1986年の作品で、すでに当時からイーストウッドはオイボレ役だ)。
で、パンフレットに載ってる蓮實重彦センセイの解説読んだら、博識そうに過去のイーストウッドの作品の、『ペイルライダー』やら『ファイアーフォックス』やら『許されざる者』やら引き合いに出してるのに、一言も『ハートブレイク・リッジ』には言及がない。
あーそーですか、おフランス帰りで元・東京大学学長の蓮實大先生なんかには無視されるよーな作品ってわけですか……。