電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

伝統なき愛国心/連続性なき伝統

先に「自分の生活を自分で作ることの継承」って書いたが、これは他人ごとじゃない。
今の日本の若い愛国者は、日本の伝統文化ってやつを、靖国神社遊就館のガラスケースにきれいに陳列されているようなものだと思ってるんじゃないかというフシがあるけれど、確かにあれも日本の伝統文化ではあるが、あくまでその一側面でしかない。
本来、伝統文化とは、生活環境やそれを成り立たせる共同体、風土とセットで成立している。戦争のときだけ取り出すきれいな錦の御旗とかではなく、毎日触れてるヌカミソのにおいがするよーなもののほうこそが「生きた」伝統文化なのだ。
たとえば、東北の農民は江戸時代から白菜の漬け物食ってたとか思うのは大まちがいだぞ。白菜は明治以降に大陸帰りの人間が持ち込んだ野菜だ。柳田國男はすでに大正時代当時、牛肉鍋を伝統料理と思い込んでる世代を嘆いてた――偉そうに愛国心を語る一方で、こういう話をくだらないとか思う輩こそ、日本の伝統をないがしろにしてるヤツだ。
もっとも、同時に、伝統は時代状況とともに変転するものでもある。
三島由起夫も『文化防衛論』でそういう話をしている。日本はヨーロッパみたいな石造り建築の国じゃなくて木造建築なんだから焼けてしまえばそれまでだ。江戸時代当時の人間だって、奈良時代当時の伝統などほとんど無視してたろうさ。つまり、現在を基準になんでも「昔の人」とひとくくりにするのもまたズサンな理解、ということだ。
ともあれ、現代に生きるわれわれが、戦前の軍人とか戦国武将とかの昔の人の言動を引き合いにして日本の精神だなんだと何かを語りたいなら、その当時の人間が、どういう生活環境条件の実感の中にあって、そういう言動をしてたかまで込みで考えなくてはなるまい。
自分も仕事でついそれを見落としかけることがあるだけに、今回は自戒込みだが。