電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

権威への背伸び/スノビズムの善用

本心を言えば、わたしは1990年代以降のアニメだの漫画だのゲームだのの「批評」の文脈は好きではない。
これは以前も述べたが、要は、自分の好きな物をカッコよく小難しげに語ることで「それが好きな自分」もエラいということにしたがっているような雰囲気を感じるからである。
これも少し前に述べたが、「いい年して漫画やアニメやゲームや特撮といったオタクジャンルが好き」ということ自体が恥ずかしいのではない、それを躍起に権威づけようとするスノッブな態度が恥ずかしいのだ。
しかしながら、こうも思うわけである。権威への背伸び、スノビズムの善用というものもないわけではないと。
また昔話をする。どうにもおっさんくさくなるが、実際こっちも来年で40歳だ、逃げも隠れもできないおっさんなのだから仕方ない。
中高生の頃、今はなき『アニメック』とか『月刊アウト(OUT)』とか、その頃は朝日ソノラマから季刊で刊行されていた『宇宙船』とかを一生懸命読んだ。1980年代の話だ。
当時のそれらの雑誌は、とにかく無駄に活字が多かった。
それも、リアルタイム最新のアニメや特撮作品の話ばかりでなく、アニメや特撮の歴史にかこつけたテレビ放送史(60年代にどんな番組がヒットしたかとか)だの、SFやホラーの古典に通じる名作映画(ヒッチコックとか)だの、SF映画と現実の冷戦やら原子力開発やらの歴史の関係(1950年代の侵略物SFは露骨に共産主義の恐怖のメタファだったわけだし)だのといった話がよく載っていた物だった。
つまり、本来はリアルタイム最新のアニメや特撮作品の情報を求めてそういう雑誌を読んでたはずなのに、いつの間にやら余計な幅広い知識やものの見方が身についたわけだ。
草創期のアニメ雑誌の編集者やライターには、決してそれだけが本業だけではない人間が少なくなかった。大体アニメの記事だけで回して食える業界システムも確立もされてなかったから、アニメの話ばかり書いてるわけでもなかった。
はたまた、当時は今よりもっとオタクは少数だったし「いい歳してアニメや漫画やゲームや怪獣映画に熱中=本来は恥ずかしい」ということを覆すため、「いいや、こういう物に熱中してるけど僕ら本当は頭良いんだ」とばかりに、やたらと背伸びして小難しげなことを語りたがる傾向が強くあったのかも知れない。
言ってしまえば、権威への背伸び、スノビズムである。
しかしながら、振り返ると、わたし自身、当時そうした「活字の多いアニメ雑誌」を背伸びして読んだことで身につけた視野は確実にあると思っている。

中二病な作品に中二病な批評」上等

というわけで、またわざと前ふりを長くしたが、「コードギアス反逆のルルーシュ」本『クリティカル・ゼロ』(isbn:4877770933)刊行。すでに編集責任者(id:qyl01021)が告知しているが、詳しくはこちら(株式会社樹想社公式サイト)。
今回、当方は「オールステージ&ターン」の各話演出の解説、大河内一楼氏と竜騎士07氏という異色の対談記事の構成などを担当。
ついでに「ピカレスク物語の系譜とルルーシュ」という論考を寄稿。19世紀の『罪と罰』のラスコーリニコフ、『赤と黒』のジュリアン・ソレルから、戦後日本、そして2000年代のルルーシュに至る「反逆する近代青年」の歴史に迫った。
本書では「コードギアス」という作品にかこつけて、新自由主義がどうしたとかゼロ記号がどうしたとかいう話をさんざんしているわけで、もう恥ずかしいスノッブ臭全開である。
しかし、あえてそれに荷担した理由は、自分の10代当時を振り返って、先に述べたような、権威への背伸び、スノビズムの善用という考えが頭の片隅にあったからだ。
コードギアス反逆のルルーシュ」は、巨大ロボット、学園ラブコメ、BL、戦略シミュレーション、超能力バトル……etcetcと、多様な客層の受けを狙った要素をこれでもかとぶち込み、背伸びをしまくって「中二病アニメ」と突っ込まれている。
しかし、第一期では地方局の深夜枠(一部のマニアしか見ない枠)だったものが、ネットや口コミからの人気拡大で第二期では全国ネットの夕方枠に「昇格」して、何度も派手にアニメ誌の表紙や巻頭を飾るヒット作となった。
なるほど10代当時の自分が「コードギアス」観てたら相当熱狂したろう。「強者が弱者を虐げない矜持」「他人に優しくなれる世界」を大真面目に語り、自分のせいで死んだ人間のことを問われると一切言い訳はせず(美形悪役なのに)土下座して顔を踏まれ、でも本当に世界征服を実現してしまう主人公、でも童貞……ときては。
そして実際、そんな本作品は10代の中高生をはじめとした、多くの「アニメとか好きな若い連中」を惹きつけたという。それはおそらく、1980年代当時のわたしと同じような若者だ。
そこで、うっかり本書『クリティカル・ゼロ』で、今の10代の読者が、高木彬光の『白昼の死角』や、三島由起夫の『青の時代』や大江健三郎の『セヴンティーン』を知るかもしれないと思うと、中二病な作品に中二病な批評、上等じゃないか。
本書中でわたしが「コードギアス」の作品分析にかこつけて強調したのは、強者がみずから人のために身を張る「ノーブレス・オブリジュ」と、実行で偽善を善にしてしまえという「物語(嘘)の効用」だった。これはいずれも、1980年代以降の消費文化の中でただ豊かさを享受するだけとなったわたしたちが失った感覚だが、ルルーシュは実際に劇中でそれを身をもって示している。
――とかいうような俺のウザい話はどーでもいいので、ひとまず「コードギアス」観て「何だこの中二病は」とか言いながらも楽しんで、ちょっと背伸びしたものが覗いてみたいって人は「ケッ何言ってんだ」とか突っ込みながら一読してくださると嬉しいです。