電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

列外

0.TV『仮面ライダーディケイド
0.映画『オールライダー対大ショッカー』
0.映画『仮面ライダーW&ディケイド ムービー大戦2010』
順位とかつけようない、寝転がって画面にポップコーン投げつけながら観るように、正しく娯楽として接した作品。
平成仮面ライダーシリーズは、いずれも「仮面ライダーと呼ばれる変身ヒーローが出てくる」という一点のみを縛りに、それぞれに異なる背景や動機を持った男たちが葛藤しつつ信頼関係を築いたり、やっぱり決裂したり、という話を毎年一年間かけて描いてきた。
たとえば『仮面ライダー龍騎』なら全員が敵同士のバトルロワイヤル的な関係から奇妙な信頼が生まれる過程が描かれ、『仮面ライダー555』なら人類と異人種との対立と共存がテーマとなり、『仮面ライダー響鬼』なら徒弟制のような共同体での擬似的な父子関係がテーマとなったり、と。
で、平成ライダー10周年作品として作られた『ディケイド』では、本来そういう積み重ねのドラマだった各作品の中に「各ライダーの世界」を渡り歩く流れ者の主人公が乱暴に横から割り込んで事態を解決して去ってゆく。作り手みずからタコが自分の足を食い尽くしすような過去作品の再利用ぶりだが、東映の商魂たくましさは今に始まった話ではない。
しかも「被告や検事がライダーに変身してバトルで裁判結果を決める世界」とか、「誰にでも優しくするよう怪人が人間に強制しているディストピア世界」とか、まるで星新一ショートショートSFか、『銀河鉄道999』のワンエピソードのような話をやってくれてる。
そんな「ライダー」の名を冠してるだけで何でもありの『ディケイド』、膨大な歴代ライダーを使い倒した劇場版のせいもあってオールド特撮ファンにはあまり人気が良くない。
しかし、そもそも、日本の特撮ヒーローは、怪獣や怪人というメタファを通して文明社会の暗部や社会からはみ出した人間を描いてきた。初代のゴジラからして戦争の遺恨と核の脅威の擬人化ならぬ擬獣化だ。仮面ライダーをはじめ多くのヒーローを生んだ石ノ森章太郎は、ヒーローを人間社会とその外部のボーダーに立たせながらSF的想像力を駆使してきた……そう考えれば『ディケイド』も正しい日本SF特撮的想像力の継承作品じゃね?
『ディケイド』に続いて秋から始まった『仮面ライダーW』では、ついにはっきり、敵の怪人はただの人間(ツールで怪人に変身する犯罪者)ということになった。ある意味『怪奇大作戦』や『特警ウィンスペクター』以来のパターンじゃないか。
『W』では、松田優作の『探偵物語』あたりの70年代ドラマを意識して、主人公は探偵、敵は町の犯罪者という古典的な設定を採りつつ、主人公の相方をいかにも現代的なハッカー風のキャラにして両者の葛藤と信頼を描くことで、うまく昭和風と平成風を繋いで見せてるともといえる。
・・・
とりあえず、自分もそんな、過去の人々の行動や表現の蓄積から得られるものをうまく現在につなげる仕事ができるようになりたいもんです。
今年も普通に依頼の来た仕事やってたら終わってしまった感で、とくに秋頃は一時期、手も足も内臓も健康なのに、角膜に傷がついたせいで仕事効率が極度に低下しやがりましたが(わたしは重度の乱視なので眼鏡では視力の矯正に限界があるのだが、数週間コンタクトレンズがはめられなくなった)、どうにか編集者に対する不義理だけは働かずに済ませられたました。
そんなわけもあって今年はいまひとつ自分から打って出るまでには及びませんでしたが、2010年には四十路突入だからな、気合い入れないと。
それでは皆さま、よいお年を。