電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

現代劇は神話に回帰するのか

PHPの「神々」シリーズはいまだわりと好評らしい。それで相変わらず神話伝承の本の仕事をしていると、漠然と思うことがある。
しばし前「コードギアス反逆のルルーシュ」本『クリティカル・ゼロ』で一緒に仕事した成馬零一氏(id:narima01)が「人間芝居とキャラクター芝居」という話(http://d.hatena.ne.jp/narima01/20100113)を書いていた。
昨今「キャラクター消費」という言い方があるが、それこそ近代文学成立以前の神話や伝承の人物はみな、ギリシア悲劇の英雄ヘラクレスとか三国志演義の忠君孔明やらのように、リアルな人間像ではなく「キャラ」として消費されてきたものではないか。
筒井康隆文学部唯野教授』の中では、ノースロップ・フライの『批評の解剖』を援用して、文学は以下のように発展してきたと述べられていた。
 1.神話(主人公は神様)さしずめギリシア悲劇とか
 2.恋愛小説・冒険小説・伝奇小説(主人公は英雄)騎士道文学とか
 3.悲劇・叙事詩(主人公は王侯貴族とか)「ハムレット」とか
 4.喜劇・リアリズム小説(主人公は普通の人)「ドン・キホーテ」とか
 5.風刺・アイロニー(主人公は戯画化された存在)「文学部唯野教授」とかw
つまり、時代が下るにつれ主人公が神聖性を失い、等身大のリアルな存在になってきてる。
上記『世界の神々の意外な結末』の執筆中にもこれを痛感した。たとえばケルトの神話伝承とひとくくりにされているものでも、光の神ルーなどアイルランドの国造りの神々は人間離れした存在だが、フィアナ騎士団伝説、アーサー王伝説、と後代に成立した話になるにつれ、主人公も普通の人間に近くなる。ギリシア神話や日本神話も同様。
さしずめ日本映画も、歌舞伎や講談の流れをくむ古典的チャンバラ時代劇から、1950年代以降の黒澤明の時代劇、1960年代の高倉健全盛期のヤクザ映画、1970年代の東映の実録ヤクザ映画路線……と、主人公の等身大化リアル化が進んできたことになる。

聖俗や貴賤の「落差」の需要

で、フライ牧師の説によると、主人公の等身大化が進むと、さらに普通の人以下に戯画化された風刺やアイロニーとなり、さらにはカフカジェイムズ・ジョイスなどのように、近代人を描く文学というより神話じみた作品に回帰するのだという。
『クリティカル・ゼロ』での取材時、谷口悟朗監督に、『コードギアス』は「近代文学」ではなく「神話」ですねと言ってみたら、そうだと答えられた。
アニメでも『ヤマト』→『ガンダム』→『エヴァ』という変遷が主人公の等身大化リアル化、さらには普通の人以下のダメな自己像という自嘲への流れだとすれば、主人公が皇子で独裁者の『コードギアス』は、さしずめ神話的キャラ的主人公への回帰なのか。
では、なぜ近代文学的な「主人公の等身大化リアル化」がある一定まで行き着くと、今度は再び神話的キャラ的な人物像が出てくるのか?
PHP『文蔵』2007年3月号での松本清張特集で、奈落一騎氏が、清張作品がドラマ化されやすい理由は、清張作品には、金持ちもいれば貧乏人もいる、強者もいれば弱者もいるという「落差」があるからで、物語とは本来そういう「落差」から生まれるものであり、満足でもないが不満足でもない曖昧な内面が永遠に続く話などドラマではないと述べている。
つまり、世の中に聖俗や貴賤の別というものがなくなり「普通の人間」ばかりになっては、劇的なドラマも成立しなくなって面白くない、という話になる。
以前も書いた話と関連するが歴女ブームとかも過去の時代にあった「落差」に魅力が見いだされてるからではないのか。
しかし、これを突き詰めゆくと「聖俗や貴賤の別などなく皆が平等で自由であるべし」という近代の価値観は果たして本当に無条件に正しいのか? という話に行き着く。