電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

人間は不自由にもそれなりに順応する

実際問題、仮に、一部の人間がずっと権力を独占して階層が固定化しているが、とりあえず普通に日常生活は送れて、よほど耐え難い貧困や不当な弾圧や戦争もないという政治体制だったら、ほとんどの人間はそれに順応してしまうのではないか?
案外、江戸時代の大部分の時期は、そういう状態だったのかもしれない。
確かに、たまに大飢饉もあれば幕府が悪法を出すこともあったが、基本的にはほぼ平和で、対外戦争はないし、良くも悪くも社会の変動を促す異物は入ってこない。それで均質性と順応性を美徳とする日本人の性質が養われたのではないか? という気がする。
河合敦『早わかり日本史』の記述によれば、日本の明治維新時の廃藩置県では、予想外に諸藩の抵抗は少なく進んだという。一部を除けば、トップの首は代わっても昨日までと変わらず働く人々……この図式、敗戦後に占領軍がやって来たときもほぼ同様。
他の国だったら、維新や敗戦のような政変が起きれば、もっと激しい血みどろの内戦や陰湿な地域対立が起きたろう。アメリカでは南北戦争時、北軍中央政府)による南軍(分離派)への徹底的な殲滅戦が行なわれたし、ドイツでは第一次世界大戦後、敗戦を招いたプロイセン中心の政府に対するバイエルン州の分離運動が起きた。
そう考えると、皮肉な話だが、日本人は鎖国下の幕藩体制が二百年以上続いたことで相当平和的な国民性を身につけたのかもしれない。代わりに自主性は低下したかもしれないが。

不自由は本当に不幸か?

上記『世界の独裁国家がよくわかる本』の執筆中も、政治体制は独裁でもそれなりに国民は順応していたり、独裁だから全面的に悪いと言って済ませられない面をいろいろ感じた。
キューバは貧しいが教育と医療が無料で中南米では一番治安が良いし、リビアカダフィが外国企業を追い出して潤沢な石油資本を守ったおかげで国民生活は豊かだ。当然、北朝鮮ジンバブエみたいなひどい独裁国も多いが。
一方、マイケル・ムーアの『キャピタリズム』を観ると、自由な先進国のはずのアメリカでは、その自由さゆえ経済的強者が節度を失って世の中が荒廃してる模様。それを諫めるムーアは、社会主義でなく、神父や司教への取材を通じて古いキリスト教的な清貧と相互扶助を説く。これは左翼扱いのレッテル貼りのを回避するためかもしれないが、そこで持ち出されるのが、近代以前からの宗教的精神なわけだ。
現在、あらかじめ欲得の自由や聖俗貴賤の平等が保証されてることになっている国の人間は、それらはとにかく尊重されるべき権利だと思っている。
しかしだ、たとえばの話、深沢七郎の『楢山節考』の村に住む人々は果たして不幸か?
この作品中の村では住民が一人増えたら代わりに一人減らなければならない、つまり新たな赤子が生まれたら老人は死ななければならないという、近代ヒューマニズムに照らせば残酷な掟がある。だが、村の外を一切知らず、閉鎖環境内での自給自足経済が一応それなりに安定しているこの村の住人は、それを平然と自然に受け入れているのだ。
わたし自身は、しょせん戦後の平和で自由で豊かな日本しか知らない人間なので、今からそういう生活に順応できるかといえば、そりゃ無理があるだろうとは思う。
とはいえ、自由や平等が保証されているのが当たり前と思っている現代日本人の視点のみをもって、そうではない時代や体制に生きる人間を一方的に見下すというのは、相当に失礼な見方だろう。それを言ったら現代人も未来の人間よりいっさい劣ることになる。
――とまあ、今回はあえて、ある意味では保守反動バックラッシュ的なことを書いた。
でも実際、そういう一見前近代的な、聖俗や貴賤の別、不自由や不平等も、価値観のひとつとして見ることが、本当の意味で文化の多様性を認めるということだったりもする。
常により新しい物のみが最善と思い込むのも、逆に狭い想像力かも知れない。