電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

「保守」の分裂と変容

ネットでは韓流番組への反感が広まっているが、恐らく、韓流番組を愛好するような人々(おばさん層とか)は、ネット世論の外で目立たずに生きているのだろう。
本年は震災発生後、不本意ながらネット世論の狭さを思い知らされた。
わたしは3月当時、勇んで「被災地外での買い占めのせいで被災地に届くべき物資が届かず被災民に餓死者・病死者が続出した場合、買い占めた奴は人殺し!!!!」などと書く愚を犯してしまったが、そもそも食糧や消耗品を買い占めるよーな人々の多数は、ネットなんぞ見ない人なのだ(泣)
震災後、スーパーなどで大量に物を買っているのはおもに50代以上の中高年だった。恐らく、中途半端に石油ショック当時の記憶などがあるのだろう。生まれたときからいっさい物不足を体験したことのない世代は、逆説的に冷静だった。
だが、いくらTwitterをはじめとするネットメディアで買い占めの愚を説く書き込みが広まっても、実際に物流が回復するまで、買い占めパニックは収まらなかった。
4月には東京では都知事選挙があった。石原慎太郎原発擁護のうえに児童ポルノ絡みの表現規制推進派ときてるので、Twitterをはじめネットではみんな一生懸命に反石原の意見を広めたけれど、結局は石原の四選になった。
……みんなもう素直に認めるべきだ。真の多数派、大衆保守派というべき存在は、所詮は30代以下のオタク層が中心のネット内にはいないのだと。
しかし、そういうネット外世論の価値観というものは漠然としていて、文字化されて表現されることはほとんどない。そしてそれゆえ、ほとんど認識されない。

政治的ネット保守と古典的大衆保守価値観のズレ

以前から、ネット世論嫌韓などを唱える層は、政治的イデオロギーとしては保守(というか民族的排外主義?)を標榜しているが、文化的な価値観では、どうも昔ながらの日本の保守的庶民の価値観とはずれがあるのではないか、という気がする。
昨今の島田紳助引退問題で改めてそれを感じた。
ネット世論では、暴力団と芸能界の関係を非難する意見が目立つ。元より、2ちゃんねるTwitterなどのメットメディアでは、暴力団、暴走族、部落(同和)、在日などはひどく評判が悪い。ネットで保守愛国的意見を唱える人の多くは、大抵これらを激しく嫌悪している。
だが、従来の右翼は任侠関係者のようなイメージがあり、実際にヤクザと縁のある場合も多かった。そこで「街宣右翼愛国者のイメージ悪化をはかった反日勢力の自作自演」という解釈が広まっている。
しかしである、実際、ヤクザや暴走族や貧困地区の出身者の多くは、身内での先輩後輩、親子兄弟の上下関係や礼儀を重んじ、近代個人主義には背を向けるように地縁血縁による結束や集団への滅私奉公を重視する価値観だった……まさにそーいうのが、かつての「保守的大衆の価値観」だったんだけどね。実際、1970年代までは、虚構混じりながらもそんな世界を描くヤクザ映画が広く大衆に支持されていた。
ヤクザや暴走族が日の丸や特攻服を好むのは、彼らの持つ古くさい土着的な価値観が右翼的メンタリティと相性よかったからだ。
清朝から中華民国時代の大陸のヤクザ者を研究した、フィル・ビリングスリーの『匪賊 近代中国の辺境と中央』(筑摩書房)でも、欧米の学者が匪賊はアウトローだから反体制的な価値観の連中かと思ったら、彼らの内部は仁義や上下関係を重んじる古典的保守的な価値観だったと語られている。
が、ネット世論で保守愛国的意見を述べる人は、ヤクザや暴走族が大嫌いである。これはミもフタもない話、いじめられっ子の価値観ではないかという気がしている。

豊かさで進む個人主義

確かに、現代の暴力団構成員の多くは、すでに古典的な任侠の美徳などからは遠いビジネスライクな犯罪集団と化している。それを肯定する気はない。
とはいえ、芸能のような興業の世界は、そもそも中世には河原者(被差別者のことです)と呼ばれたように、身分の確定したまっとうな勤め人とは異なる。トラブル処理などで裏社会の人間が関わることは古くから少なくなかった。
これを批判なく肯定してしまってもいけないが、とかく法的な「理」だけで善悪を考えるのは小賢しいインテリで、清濁併せ持つとか義理人情の世界を愛するのが保守的庶民の価値観ではなかったか。先に挙げた、日本を代表する古典的大衆保守精神の体現者・寅さんだってテキヤで、つまりは任侠の仲間ではないか。
こういう人間性の曖昧さ、義理人情とか仁義とかの世界に対する想像力が滅んだのは、ひとえに日本も豊かになって個人主義が進んだからだろう。家族や先輩や地元の年長者との上下関係など気にせず、いくらでもPCと携帯電話のある自宅の自室だけで世界が完結できる時代なのだから。それゆえの「無縁社会」化でもあるのだが。
こういう保守的価値観の変容が日本以外の国でも進んでいるのかはよくわからない。だが、中進国の空気が残っている韓国や中国も、今後も日本に近づくのだろう。
アジアや欧米など60か国のアンケートを基にした『世界主要国価値観データブック』(同朋舎)によれば、「戦争が起こったら国のために戦う」という人の比率は、中国と韓国では70%以上だ(日本はわずか約15%!)。だが、この数値は、じつは1995年から2005年の10年間の間に、約20%も低下しているという。
だから予告する。嫌韓派が頑張らなくても、韓国が日本と変わらなくなれば、韓流ブームは自然に消える。そのときには、ネット世論の外にいる日本の名もない保守的大衆たちは、インドやベトナムの番組に懐かしさを感じて見入るのだろうか。