電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

韓流ドラマが面白がられる背景

毎度毎度のことだが、今回も世間の話題に遅れて後出しジャンケンをしてみる。
本年8月中やたらに盛り上がった、反フジテレビ(反韓流)デモの背景についてだ。
一部でも指摘されている通り、韓流番組が増えた最大の理由は、低コストでそこそこの視聴率が取れるというテレビ局のコストパフォーマンス志向だろうと思う。
しかし、確かに深夜枠やCS、BSなどの専門チャンネルで韓流番組が増えるのは気にならないが、昼間やプライムタイムも韓流ばかりになれば「ちょっと多すぎないか」という気もする。バランスを考えれば、韓国だけでなく、台湾やシンガポールインドネシアベトナムやタイやインドやイランの番組が流れても良いだろう。
また、一方では、韓国のテレビ・芸能コンテンツ輸出はソフトパワー外交戦略の一環で、こうした分野から自国のイメージアップをはかり、ひいては他の工業分野での韓国製品の輸出拡大や、韓国への好意的な世論づくりの意図があると指摘されている。それも一理あるだろう。
……とはいえ、いくら安い番組が多く、輸出元が国策でプッシュしていても、本当に内容がつまらなければ消費者は見向きもしないはずだ。それがそこそこ受けている理由は何なのか? そこに踏み込んだ冷静な分析はあまり見かけない気がした。

今の日本にはない「落差」と保守的価値観

わたしは韓流ドラマもK-POPアイドルの出る番組もまるで観ないのだが、今の日本で韓国の番組などがウケる「構造」自体は、な〜んとなくわかる気がする。
畏友のライター奈落一騎は『文蔵』2007年3月号の松本清張特集で、こう書いた。

松本清張作品がドラマ化されやすい理由を挙げるならば、清張作品には「落差」があるということであろうか。「落差」があるというのは、簡単にいえば、金持ちがいれば貧乏人もいる、強者がいれば弱者もいるということだ。

松本清張の作品の多くは、まだ日本で貧富の差が明確な1950〜70年代に書かれた。しかし、80年代以降の日本は、豊かさと個人主義で人間関係も平坦化されていった。こうした事態を踏まえて、奈落氏は前出の文章の後の方にこう書いている。

そんな現代を題材にテレビドラマを作るとなれば「どこの誰でもない不確かな私の、満足でもないが不満足でもない曖昧な内面が永遠に続く」ドラマでしかないだろう。だが、そんなものはドラマ(物語)ではない。

ところが一方、韓国は現代でもなお、産業は大財閥中心で、独裁経営の大金持ち一族もいればド貧乏人もいる。いまだに儒教道徳的な価値観が強くて、地縁血縁の人間関係も濃い。つい20数年前まで軍事政権で、威張った怖そうな軍人もゴロゴロいたし、現在も徴兵制があって、会社や学校でも上下関係にはきびしい。
つまりそれだけ「落差」だらけだ。貧富の対立や男女の仲の障害(実家の反対や身分の差とか)など、劇的なドラマのネタは豊富に転がっている。不謹慎なことをあえて言えば、不自由な社会の方が面白い物語が作れるのだ。
韓流ドラマブームの到来と同時期に、先に挙げた松本清張ドラマや昭和懐古のブームが来たのも偶然ではないだろう。実際、中高年には韓流ドラマの劇中の雰囲気に「懐かしさ」を感じる人がわりといるらしい。日本のドラマやスターが本当に輝いていた1960〜70年代は、日本もまだまだ中進国の空気を残していた。
先週出ていた『週刊文春』9月1日号ではメディアプロデューサー酒井政利が、『冬のソナタ』の脚本家は1950〜60年代の日本の人気ドラマ『君の名は』や、70年代に作られた山口百恵の『赤い〜』シリーズを参考にしたと述べている。そういえば、日本の寅さんは韓国ばかりか北朝鮮や中国でも人気だというではないか。
現在の日本は再び貧乏になり、貧困も差別も暴力も新しい形で復活してきているが、それをリアルに描けば『闇金ウシジマくん』のようになってしまう。乾いた感じになって、もはやアジア的庶民的な人情味のドラマは作れない。
かつての日本の庶民が慣れ親しんだ、親孝行や集団への滅私奉公などの保守的価値観は、今の核家族で平和ボケで個人主義の日本では滅びかけているが、いまだ中進国の空気が残る韓国にはまだ生きている(それゆえ大変そうだなあとは思うが…)。
そこが韓流番組が名もない庶民になーんとなくウケてる理由ではないかと感じる。政治的に「保守」を標榜しつつ、文化的には1980年代以降の個人主義が基盤の漫画やアニメやゲームを愛好する人たちは、そのへんをどう認識してるのか?