電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

普遍は不変か?

では、そうやってエラそうに東浩紀の陥っている図式(東浩紀個人のことではありませんよ。念のため)にツッコミ入れてるお前自身(骸吉)は、どういう視点でもの考えてんだよ? というツッコミに対しては、とりあえず以下のように答えたい。
セカイ系ライトノベルクドカンのTVドラマも良いけど、ちょっと視点変えて、ドストエフスキーでも読んだら? とw
つまり、古典にも目を向けるということだ。最新流行ネタは変わっても、古来からあるトラディショナルな構造・図式は維持される場合もある。
ただしまったく同じとは限らない、ここが違う、それが時代や地域の特異性、ではその特異性の原因は何か? と考えることだ。
それこそわたしは、嫌韓厨とナチス支持者の相似点と相違点とか安倍晋三とナポレオン三世とか、惑星開発委員会の大槻ゲンヂ『新興宗教オモイデ教』座談会とか、「○○の図式は××と似ている」式の構造当てはめ思考ばかりやっている。
PHP文庫『世界の神々』シリーズでも「○○神話の××」は「△△神話の□□」と構造が同じ、普遍のパターンなのだろう、なんて話ばかりやってる)
ゆっとくが「俺はこんな古典を知ってるぞ自慢」がしたいわけではない。「ああ、この最新の××は古典の○○と似てますね。並べて読むとより楽しめたり、そのことで見出せることがあって面白いかもしれません」という話がしたいのだ。
ドストエフスキーはなぜ日本人に人気があったのか? これは一考の価値がある。これについては昔から諸説あるだろうが、自分なりの仮説としてこんな考え方ができる。
比較の例としてはおかしいかも知れないが、たとえば、フローベールの『ボヴァリー夫人』という小説がある、これは、第二帝政期のフランスのある片田舎のある医者の奥さんの生活を非常にリアルに描いた小説だ。
ボヴァリー夫人』はすぐれた文学作品だが、一般の日本人多数にはとっつきにくいと思う。なぜかというと、特定のある国のある階層のあるローカリティという個別具体に迫りすぎて、そんなもん知らない日本人には、わが身を重ねて理解することが難しい。
この点、ドストエフスキー作品というのは、『罪と罰』だろうが『カラマーゾフの兄弟』だろうが『悪霊』だろうが、とにかくバカみたいに登場人物が多く、しかもそれが、貴族に貧乏学生に官吏に逃亡奴隷に革命家に娼婦に聖職者etcetc…と、やたら多様だ。
極端な言い方をすると、ドストエフスキー作品は、そのことによって、ただ19世紀ロシアのローカルな場面を切り取った作品ではなく、それこそ一個の「世界」が再現されているといえないか? そして、個別具体的過ぎるローカリティは無関係な土地の人間には感情移入が難しくても、金持ちと貧乏人の関係、父と子の世代対立、とかいった「図式」自体は、国や時代を超えて感情移入しやすい、だから、ドストエフスキー作品は日本で愛読されたのではないだろうか?
加えて、19世紀のロシアは同時期の日本と同様、貧富の差も土着的人間と近代的人間の落差も大きい国だった。
近年、松本清張作品のドラマ化が再ブームになった。80年代後半〜90年代前半に流行した、いわゆる「トレンディドラマ」は、その当時のローカルな階層と時代性にしか応じていないが、多様な階層とローカリティのある登場人物を描いた松本清張作品のドラマは、それゆえ、単なる昭和懐古ネタという意味を超えた普遍性があるのではないか?
(ついでに与太話をすれば、昔からオタクに支持された漫画、アニメ、ゲームは多数あるが、その中でガンダムが群を抜いた位置にあるのは、多様な階層とローカリティのある登場人物を描いて一個の世界を再現することに長けていたからなのかも知れない)
現代の問題を考えるのに、現代だけ見ていても、いずれ蛸が自分の足を食い尽くすように頭打ちになる。今は格差社会化と呼ばれるが、昔の方がもっとずっと貧富の差も広く、ゆえに人間類型の幅も広かった側面だってある。それに眼を向けることで、現代のものだけ追っていても気づけない視野が開けることだってあるかも知れない。
わたしは流行とか関係なく、過去のものから、そういう、現在にも当てはめて考えるヒントに使える図式、構造を見出すことにこだわっている。
実際、どうもそれが、歴年の畏友にも認められている唯一の才能でもあるようなので。