電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

思想は自己正当化の万能薬じゃねえぞ!

なお、べつに東浩紀個人を貶めることが趣旨ではないが、「東浩紀が陥っている図式」についてはわたしも一言したい。
東浩紀は、90年代後半以降の「セカイ系的」なライトノベルエロゲーを難しい思想用語でいろいろ誉めているようだ。まあ、それをいえば、ニーチェは『悲劇の誕生』で当時最新のミュージシャンであるヴァーグナーを論文の題材に扱ったが、当時の世間の評価では、いってみれば、モー娘。で大真面目な論文を書くようなものだったらしいし。
しかし、これは東当人の意図したことではないかも知れないが、結果的に、東の論が、それを読む一部の怠惰な人間に「だから、とにかく自分たちの好きなエロゲーは時代の最先端、カッコいい、エラい(→ほかのことには興味持たなくて良いし、そればっかり論じている自分は何様かなんて考えなくてよい)」という、都合よい自己肯定の権威のお墨付き承認装置として機能しているという側面はあるのではないか?
たとえば、ロラン・バルトは、記号論を説明するのにプロレスを持ち出したが、だからといって「プロレスが時代の最先端。プロレスファンはプロレス以外のものに興味持たなくてもよい」などということは言ってないのであるw
この点に関してだけ言えば、東と同年生まれの山野車輪(と、その周辺の宝島・サンケイ系保守サブカル文化人)が、今の嫌韓厨に対して「だから、とにかく韓国・在日は悪い(→ほかのことには興味持たなくて良いし、そればっかり論じている自分は何様かなんて考えなくてよい、自分たちは日本人というだけで(何の努力もしなくても!)無条件に偉い)」という、都合よい自己肯定の権威のお墨付き承認装置として機能しているという構造と、図式自体はまるで変わらないだろう。
(話が横道にそれるが、最近の中国産有毒ギョーザをめぐる報道で、週刊新潮は中国側の毒物テロ説まで持ち出す中国叩き姿勢だが、週刊文春は、中国批判もしているが、同時に、青沼陽一郎氏らが、こんな輸入食品に頼らなければならない日本の食料自給率低下の問題を見直せと説いている。卓見だ。でも売れるのは週刊新潮の方なのだろう)
こういう都合のよい自己肯定の道具にできる言説は、それゆえウケが良く、売れる。
余談ながら、わたしはそういうことを一切言わないので、人気がないw
が、別にウケて人気者になるのが人生の目的でものを考えているわけではないから別に良い(←負け惜しみ)。
90年代の一時期、小林よしのりも、宮台真司も「冷戦体制崩壊でそれまでの戦後の思想が全部役立たずになった今、これが時代の最先端だから、これさえ押さえてれば他を学ぶ必要はない」という便利な万能回答として消費された側面がある。だが、世の中そんな簡単にはすむものではない。
わたしより5歳ほど年長の、つまり80年代ニューアカブームで浅田彰などを愛読したであろう世代のライターで、文学批評でもJ-POP批評でも、何の原稿を書いてもすべて必ずポスト構造主義の述語ばかりが並んでる、という人がいた。彼にとっては、何十年経っても永遠にそれが最先端の万能回答で、かつカッコいいものなのだろう。
ニューアカ現代思想の文芸批評家が誉めるメタフィクションだのアンチロマンだの脱構築だのだけつまみ食い的に齧って、その図式に当てはまらない昔から変わらずにある定番や、そもそもそんな難しいこと考えないふつーの人の感性とかを視野に入れないのは、たとえて言うと、フォアグラだのトリュフだのの極端な珍味だけ食べててご飯を食べない人のようなものだ。そりゃ栄養が偏って変な人になるよ)
なんでも、200年ほど前には、ヘーゲル哲学というものがその位置にあったらしい。要するに「ヘーゲルさえ読んでりゃ俺は最先端。もう他は何も学ばなくて良い」などと。そんな虫の良い話があるか、ってのw