電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

「こっちが新しい=エラい」合戦は不毛か

すでにid:gryphon氏が取り上げているが、浅羽通明の個人誌ニューズレター「流行神」最新号が、東浩紀による「ゼロ年代の想像力」(by宇野常寛)評を論じている。
わたしは不勉強なもので、東浩紀の言説自体についても、「ゼロ年代の想像力」自体についても、そこで論じられているような最新サブカル作品とその批評をきちんと押さえているわけではないから、うかつなことは言えないだが、これを評しての浅羽の「サブカル批評の図式」自体については、いろいろと考えさせられた。
まず、乱暴にまとめると、東浩紀は、エヴァンゲリオン以降、90年代後半に広まった内省的メタ視点的な物語、つまり「セカイ系的」な作品を良いとする立場で、それらが、おフランス現代思想家だのの海外の学者にも認められて欲しい、と主張しているそうだ。
これに対し「ゼロ年代の想像力」を書いている宇野常寛は、(流行神で評されている論点だけを取り出していうと)、それはもう古い、00年代以降に芽生えている、デスノートのような行動する主人公を描く「決断主義的」な作品や、さらにその先の共同性を描く宮藤官九郎のTVドラマなどの台頭を指摘する立場、という対決図式になっているようである。
浅羽は、上記の図式について、東浩紀は「海外の学者=エラい・カッコいい」&「時代の最先端・新しい=エラい・カッコいい」という二つの権威主義に囚われている、と説く。
さらに、東に対して宇野を誉めるわけでもなく、この対決図式の部分は「俺の方がより最先端の、新しい(=エラい、正しい、カッコいい)ネタを押さえてるぞ」合戦でしかないとしたうえで、90年代前半、いやもっと以前の古典SFやミステリなどにも、「セカイ系的」なメタ視点の作品も、「決断主義的」な作品もある、と多数の実例をあげる(この部分はむしろ、東・宇野両人に20年先立つ古典おたくとしての浅羽の面目躍如だw)
ただし、正確を期すため付け加えておくと、わたしは「ゼロ年代の想像力」とこれを評した東の発言を全部を通してきちんと読んではいない、ここでは流行神でやり取り上げられた見方のみを単純に図式化して抜き出した。惑星開発委員会の同人誌『PLANETS vol.4』中の東浩紀×宇野常寛対談では、宇野は、東が取り上げる「90年代的」なゲーム作品などに対し、自分が取り上げる「00年代的」なクドカンのTVドラマ作品などのほうが一方的に優れているなどと言いたいのではなく、そもそも、オタク文化とTVドラマを対比させるような二元論的な意図なんかなく、東の読者はもっと広い視野を持っていろんなものに眼を向けて欲しい、だからたとえばこんな作品だってあるよ、という趣旨で取り上げてる、と述べている。
こう書くと宣伝めくが、この対談、興味ある人は流行神と併せて読んで欲しい。流行神は、浅羽通明の著作(どの本でもよい)の巻末に購読申し込み先が書いてあるはずです。