電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

続・人間心理の逆説について

武藤貴也議員のホモ買春疑惑が発覚後、以下のような言説が散見された。

  1. 保守・右派がゲイというセクシャルマイノリティなのは矛盾ではないか
  2. 差別反対を唱えるリベラル派がゲイだから武藤議員を叩くのは矛盾ではないか

いずれも随分と偏見的な見方だなあという気がしてならない。

タカ派ホモソーシャルの相性はばつぐんだ

まず「1」に関していえば、三島由紀夫ナチス突撃隊のエルンスト・レーム(こいつはゲイではなくバイだが)を例に引くまでなく、右翼やタカ派軍人のホモは少なくない。
どうも世間では「ホモ=女性的な男性」という偏見があるようだが、むしろ逆に男らしさや力強さを過度に追求し、ホモソーシャル結束を愛好するあまり男尊女卑の女嫌いが嵩じて、「やっぱり男同士に限るね」という嗜好に行きつく例もあるのだ。
前にも述べたが、講談社選書メチエ『愛と欲望のナチズム』(isbn:4062585367)によると、男ばかりで結束したナチス親衛隊は放っとくとホモの巣窟になるため、それを避けるためSS長官ヒムラーは必死に隊員の見合いや出会いパーティをやってたという。
かようなマッチョ系の人間にとって、保守的タカ派的であることとゲイであることは矛盾せず、自分が少数被差別者のセクシャルマイノリティなんて自意識は持っていない。
性的マイノリティのはずのゲイがウヨになるのは矛盾というのなら、貧乏な労働者ではなく金持ち高学歴が左翼になるのだって矛盾のはずだ。世の中、そんな話はめずらしくない。
さらに言えば、高学歴の女性ならば皆、女権拡張のフェミニストになるかと言えばそんなことはなく、片山さつき稲田朋美、櫻井よし子、英国のサッチャー元首相らのような保守派、タカ派の女史だって大量にいるではないか。
むしろ、マイノリティなるがゆえに、既存の保守権力内で地位の安定を得ようとするという事例はいくらでもある。ヒトラーはドイツではなくオーストリア出身の田舎者、戦前右翼の大物だった頭山満児玉誉士夫薩長藩閥とは無縁の維新負け組藩の出身者だった。戦後も街宣右翼被差別部落出身者や在日が多いという逆説も、これと同じ図式だ。

「普通のゲイ」はなぜ許されないのか?

まあ、実際のゲイの大部分は、女性的なおネエ系でもなく逆に極端なマッチョでもなく、本当にいっけん普通の人畜無害な男なのだが男が好き、ってなものなのだが。
上記の偏見の理由の一因は、世にマツコデラックスや美輪明宏ミッツマングローブみたいな女装タレントが公然と多数いるためかも知れない。
ところが、よく考えてもみれば不思議なことだが、彼(彼女)らのような「女装したオカマ」はテレビなど公的メディアで平然と活動しているのに、いっけん普通の男が「僕はゲイです」と公言することははばかれられるのだ。これこそ矛盾ではないだろうか?
この理由は、女装タレント(と男の娘)は、外見からして明確に普通の男性とは違うゆえに、世間の多数派は「最初から僕らとは別種の人間」と線を引いて逆説的に安全に見ることができるが、いっけん自分と何ら変わりない普通の男が実は同性愛者という方が気持ち悪くて怖い、という意識があるためではないだろうか?
先日述べた酒鬼薔薇聖斗の手記に反発する人の心理と同じだ。殺人鬼は自分と異質な怪物であってくれなくては困る、自分と同じ人間だったら、自分も怪物となるかも知れない可能性があるのを認めるのがイヤなのだ。
同様に、世間の多数派にとって同性愛者とは「男なのに女の格好をした変な人」であってくれなければならず、自分のすぐ隣にいる自分と同じいっけん普通の男が実はゲイかも知れないなどという事態は耐えられない……そういう意識があるのではないか?

右派以上に同性愛嫌いだった左翼

次に「2」についてだが、武藤議員のホモ買春疑惑報道のすぐ直後から、Twitterでもはてなブックマークでも、「武藤の発言には同意しないがゲイ疑惑で叩くのはおかしい」「武藤批判は発言内容と金の問題のみに絞るべき」といった趣旨の意見も大量に出ている。
BLOGOSは速攻でこんな記事を書いてるし、ハフィントンポストもこんな記事を書いてる。
そもそも「左翼やリベラル派だから同性愛を擁護しないといけない」などという決まりはなく、そのような見解が普及したのはせいぜいここ30年の話だ。
小説『チャイルド44』(isbn:4102169318)にも出てくるが、旧ソ連でも、中国でもどういうわけか同性愛は弾圧の対象だった。日本社会党向坂逸郎は1970年代当時、ゲイの市民権を標榜して「雑民党」を結党した東郷健を、社会主義が実現すれば「お前の病気(オカマ)は治る」と罵倒している。
どうやらかつて、左翼にとって同性愛は社会病理と見なされていたようだ。まず社会全体に貧困が蔓延していた時代、左翼にとって「貧しい労働者階級」による権力奪取が当面の目標であって、性的嗜好の自由など後回しで良かったのだろう。
左翼・リベラル派が同性愛者も含めたマイノリティ被差別者に目を向けるようになったのは、1980年代ごろには戦後の高度経済成長の成果で大多数の貧困層が底上げされて、闘争目標がそういうマイナーな路線ぐらいしかなくなって以降の話である。
先に触れた三島由紀夫ナチスの例のように、右翼的ファシズムホモソーシャルとゲイは相性が良い面がある、これに対して、同じ全体主義なのに社会主義共産主義ホモソーシャルと相性が良くないのはなぜなのだろう? 考えてみれば不思議な話だ。
恐らく、同じ全体主義でもファシズムは男尊女卑志向が強いのに対し、社会主義共産主義は男女平等の建前があったからではないだろうか。大戦中のソ連軍には女性の兵士が沢山いたし、中共紅衛兵には女子も沢山いた。このため「男だけで結束した排他的エリート主義集団」っぽくならなかったのではないか。
さらに別の事例を引くと、カトリックは同性愛を禁止しているにもかかわらず、聖職者によるホモセクハラが絶えない。これも男の聖職者ばかりで結束して、女性と接することを汚らわしいと見なす極度な禁欲主義が、いびつな形で反映された結果としか思えない。