電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

「個としての人物」を描かないことで成立した傑作

で、公開から2週間も経つからもうネタバレも気にせず今さら『シン・ゴジラ』の話。

  1. 全体の印象
    • 上映開始15分ほどで登場人物のあまりの多さに閉口し、名前と役職名を覚えることを放棄する。そして30分ほどして「ああ、これ岡本喜八『沖縄決戦』『日本のいちばん長い日』じゃねえか!」と気づく。庵野秀明は若い頃から岡本喜八の戦争映画を非常にリスペクトしているが、とりわけこの2作品は、バカみたいに登場人物が多く、それらをあえて俯瞰的に駒扱いし、戦争という巨大な理不尽に翻弄される人々の命運全体を描いている。(関係ないが、いまだにニコニコ大百科に「岡本喜八」の項目がないのは、若者向け映像文化の入門情報百科としてどうかと思う)
    • もうひとつ庵野監督が深くリスペクトする作品といえば『宇宙戦艦ヤマト』の第一作だが、どうも古代やデスラーといったキャラへの思い入れは弱かったらしい。だが、宇宙戦艦が少数のヒーローではなく膨大な数の乗組員によって動かされているということ、発進や波動砲の発射プロセスなど大量の人の手作業が重なった「段取り」の高揚感、そしてそれらの背景にあった、戦争と戦後復興に関わった多数の人々の思い、そういったものへの絶大な敬意を幾つかの媒体で語っていたはずだ。
    • 庵野秀明の監督作品といえば『トップをねらえ!』『ふしぎの海のナディア』の頃から、庵野自身の好きな過去作品の要素の再構成であるか、中学生の自意識の話になってしまっていた。本作ではみずからドキュメンタリータッチを目指したと述べた通り、あえて個々の人間の内面に深く踏み込むことを抑え、ひたすら巨視的視点に徹しているが、それが見事に成功している。そういう才能の発露という意味では、庵野秀明の監督作では最高傑作かも知れない。
    • ふり返ると『トップをねらえ!』の終盤は膨大な数の宇宙戦艦やら兵士やらが容赦なく損耗する展開で、個人の内面など吹き飛んだ巨大な命運を描く作品になっていた。それこそ本作終盤で無人戦闘機の編隊と無人電車が蕩尽される描写の先駆けだ。これは岡本喜八の『沖縄決戦』で、強大な米軍の前にばったばったと大量に人が死にまくり、観客がもはや人の死の描写に不感症になりそうな勢いだったのをなぞっているようにしか見えなかった。そういう意味で、30年前から庵野の頭の中には本作のような怪獣映画のイメージがすでにあったとしか思えない。
    • しかし、万人向けのエンターテインメント性があるかに関しては、とうてい女性客や親子連れが楽しいとは思えん内容なわけで、よく東宝がOKしたと感心する。
    • 1954年の最初の『ゴジラ』の映画は空襲と原爆という1945年の国民共通の記憶の再確認だった。もう山ほど言われ尽くされてるだろけど、庵野は本作で震災と原発事故という2011年の国民共通の記憶の再確認を目指したことは間違いない。
  2. 人物
    • 上記のような具合であるから個々の人物の描写が深くないのは必然だが、政府関係者ばっかりで下々の民草が描かれないのは物足りない。まあ尺とか作中の緊張感の持続を考えると仕方ないけど。
    • そういった意味で印象深かったのが、松尾論の演じた泉議員(主人公矢口の友人の眼鏡デブ)、未曾有の怪獣災害を前に「出世のチャンス」「将来の首相」「俺は幹事長に」などと下世話な欲丸出しの発言をしてくれる。現実の戦争や災害に直面した人間だって24時間真面目で深刻なわけではない。むしろ食ったり飲んだり異性といちゃついたりといった日常と、破壊や殺戮のような非日常の同居が現実の戦争だったりする、こういう等身大の人物が一人か二人は出てこないと困る。
    • もう一人、最後の最後に「等身大」を感じさせたのが市川実日子の演じた環境省の女性職員。ゴジラ放射線半減期が短かったというのはいかにもご都合主義だが、最後に彼女がこの事実に気づき、120分の全編で初めて笑顔を見せる場面は、本当に、怪獣災害という非日常から平和な日常に帰還着地したという安堵感があった。
  3. 見せ方
    • 毎度のことながら、庵野監督(を含めた過去のGAINAX作品)は「巨大なもの」を効果的に見せるカメラアングルや演出が上手い。たとえば、陸自の10式戦車はじつに軽快に走ってるのに、ローアングルの撮影で砲塔の重そうな感じがよく出ている。
    • 前半でビジュアル的なインパクトが大きかったのは、やはり腹這いの第2形態で川をさかのぼるゴジラに押し流される大量の船と、吹き飛ばされて宙を舞う鉄橋だろうか。しかし、考えてみれば我々はすでに5年前、大自然の脅威の力によって「ビルの上に乗った巨大な漁船」などというシュールなものを現実に見ているのだ。それを凌ぐ絵面づくりには相当苦心したはずである。「現実(ニッポン)対虚構(ゴジラ)」とは、まさに作り手自身にとっての課題であったろう。
    • ゴジラに衝突する(衝突しそうになる)通勤列車」は1954年版、1984年版にもあったのでもう伝統芸能の型みたいなものだが、それを無人電車爆弾の大盤振る舞いにしてしまうという発想には笑いが漏れずにいられなかった。
  4. ゴジラ自体
    • 上陸直後の腹這い第2形態は、間抜けな三白眼のせいで『八岐大蛇の逆襲』のオロチにしか見えんと思ったのは俺だけだろうか。
    • 本作のゴジラは着ぐるみではなくCGというので、「だったらもっと非人間的体型にチャレンジしてもいいじゃん」と思ったが、結果的には大正解とわかった。前足が小さく、尻尾が極端に長く、常に尻尾は引きずらない姿勢は、『ジュラシック・パーク』以降に定着した恐竜型モンスターのイメージを取り入れつつ、生物らしさも不気味さも重量感も充分ある。あと乱杭歯なのが禍々しくていい。
    • 1954年に都心を蹂躙した初代ゴジラの迎撃に自衛隊F-86セイバーが出撃する場面は、観客にとって間違いなくB29の迎撃だったはずだ。だが逆に、本作で対空レーザー砲装備になったゴジラが、71年ぶりに帝都上空に出現した米軍の戦略爆撃機を撃ち落とした場面では「B29を撃墜しやがった!」と思わずにいられなかったw
    • 本作のラストはゴジラに象徴される文明の暗黒面や人間を脅かす自然の脅威との共存を示唆したが、過去のゴジラシリーズで、一応は退治されたゴジラの生存・復活を示唆するラストは幾度かあったけれど、本当に死んだかもわからない状態で都心の真ん中にゴジラが居残る終わり方はなかった気がする。それで「シン・ゴジラ」の「シン」とは「死んだ」と断言しきれぬ「死ん」ということか。などと思っていたら、高山文彦は月刊『文藝春秋』の記事で「罪業」のsinなのかと記していた。