電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

体罰の発想は解決にならない

上記の件とはまったく関係ないが「暴力について」という一点のみ共通の話をひとつ。
わたしは普段このブログではいろいろ偉そうなことを書いているが、実人生においては非常にしょぼいダメな中年(←いや初老)男である、そのへんを自白する。
つい先日、一方通行の狭い道路でトラックが路上駐車していたために通れず、安易にかんしゃくを起こして思い切りトラックを蹴飛ばしたら、中にいた運転手に怒鳴られた。経緯はどうあれ、他人の所有物(業務用の車両)を破損させたら悪いのはこちらであるから、平謝りである。48歳になってこれかよ、阿呆か。
数年に1度はこの手のポカをやらかす。3年前には、自分が住んでるアパートに帰宅したら新聞の勧誘員が通路をふさいで、隣室の住人が一生懸命に断っているのに講読を迫っていた。そこで勧誘員の腕をつかんで、「どけよ、あんたがそこにずっと立ってると俺が自分の部屋に入れねえだろうが」と怒鳴ってやったら、隣室の住人には強気だった勧誘員が、途端に泣きそうな声で「何するんだよぉ」とわめきだした。
この手のトラブルになると、わたしはよく平謝りしたうえで、それでも相手が不機嫌そうならば「わかりました。そんなにムカついてるならわたしのことを一発ぶん殴って良いです」と言うのだが、相手がそれで納得したことは1度もない。先日、この阿呆な考え方が何なのか、やっと自分でわかった、48歳にもなって。
要するに、暴力による解決は、体罰の発想なのだ。
中学や高校で何かポカをした生徒は、教師や先輩に殴られる。ただし、金銭による弁済は求められない。だが、大人になると、余程の体育会系ブラック企業でない限り、体罰ではなく金銭で弁済するのが通例となる。ところが、学校ではこれを教えない。
わたしが中高生だった1980年代当時、九州の学校では教師も先輩も息をするように体罰を使った。わたしはそれが大嫌いだったはずなのに、無自覚のまま「悪いことをしても、殴られればチャラ」という考え方が内面化されていたのだ。ああ、阿呆か。
そう、体罰の発想は真の反省を生まず、ただ「悪いことをしても、殴られればチャラ」という開き直りになりかねない。暴力は解決にならないのである。
もちろん、わたしのような社会人失格のダメ中年(いや初老)ではない大人のみなさんは、とっくの昔にみんな気づいていらっしゃるだろうけれど。