電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

『空の境界』を読んだ(第四話まで)。

まあアマチュア時代の作品らしく説明くさくこなれてない生硬な感も否めないが、魔法やら超能力が気安く飛び交うお話ではありつつ、その概念の設定、例えば、呪いとかってのは、暗示とか社会慣習による刷り込みが嵩じたものである、というような、民俗学文化人類学の概念も織り込んだ着想とかは結構ユニークではあるとちょっと感心する。
(そのへんをもっとも徹底してやったのが、中島らもガダラの豚』だろうが)
設定の情報「量」で頭良さそうに見させるのはじつは比較的簡単なことで、それが成立する概念をでっち上げる方がもっと頭を使う行為じゃないかとも思う(だから、ガンダムにおける富野由悠季の発明は「ミノフスキー粒子」と「ニュータイプ」なのだ。モビルスーツの科学的軍事的設定がいかにいい加減かで揚げ足を取った気になってる人はただの野暮)
あと、魔法やら超能力がぽんぽん出てくる物語では、安易に人外のものに「愚かな人間め云々」とか言わせる超越気取り視点が多いのだが(その代表の一人が永野護だと思ってますが…)、『空の境界』はそういう感じもでもなく、人間が肉体的な五感や社会慣習から自由でないという点への視座とか、意外と地に足ついた思考だな、と思ってみたり。
その点で特に印象に残ったのが、無痛症の超能力者の話(第三話)か。肉体的苦痛に反応して念動力を発してしまう人物が、その能力を封じるため無痛症になったという皮肉。
ここで痛覚なんか無けりゃ良いに越したことないじゃん、などと思うのは、己の肉体というものをナメきった素人の発想である。
例えば、痛みを感じないまま大怪我して、自分でもまったく気付かないまま出血多量や内臓破裂で死んだらどうする? 「痛いよー!」と思えば、こそ救急車も呼ぶし、そもそもその前に、痛い目に遭わないように行動するってもんじゃないか。それが肉体ある人間だ。
吉川良太郎『ペロー・ザ・キャット全仕事』(第三回日本SF新人賞)は、昨年読んだエンターテインメント小説の中では良作だったが、主人公が意識を乗り移らせる義体のサイボーグ猫には痛覚が一切カットしてある、という設定だけ、

絶対にこれはリアルでない、

おかしい、と思えた。そんな、痛覚が無けりゃ、肉体の限界に気付かけず無茶なジャンプや着地とかしちゃうじゃん、せめて痛覚50%オフならわかるが。その辺に、作者の思考の根底にある、肉体嫌悪、精神だけ眼だけの存在になりたいという願望(まさにそれと、そのことへのセルフツッコミが中心テーマなのだけどね)が感じられたというのは皮肉か。
(でもこの作品、架空の近未来ヨーロッパの暗黒街はよくできてた。エドガー・アラン・ポー風というかグランギニョール風味というか。しかし、作者はバタイユを愛読ってのに、ベンヤミンの「遊歩者(フラヌール)」って言葉が一切出なかったのは意外。この言葉が凄く良く似合う主人公だったのに。途中、士郎正宗パクリっぽい部分があるのは御愛嬌)
で、『空の境界』の第三話で語られた、痛覚などというものが何のためあるのかの話は、『ペロー・ザ・キャット全仕事』を読んだ時のわたしの不満を解決してくれたとも思える。

SFやファンタジーなんだから何でもあり、

魔法や超能力や万能サイバーメカで不都合は無し、というのは、想像力で現実を相対化したつもりの想像力の手抜きの最たるものである。
体を動かさず情報だけで何でも分かった気になれる当世、じつは、我々は肉体的五感や社会慣習などの限定された世界の中で生きている、ということに目を向けることこそが、案外と真の想像力の第一歩じゃないのか? なーんてね。
そういや、アガサ・クリスティミス・マープルシリーズは、「生涯狭い町から外に出たことのない婆さんが、だからこそ意外な世間知の持ち主だった」ってお話でしたっけ。