電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

外国にも「ただの国民」は多数いる

論座』8月号を読むと、フランスのサルコジ新大統領についての記事が興味深い。
フランスといえば、アメリカ資本の進出を嫌う伝統的小売商支持者によって反マクドナルド暴動の起きる国である。だが、そんな同国にもアメリカ文化で育った世代が現れていて、戦後生まれの親米主義者サルコジはその筆頭ということになるらしい。
以前、坪内祐三が『諸君!』に書いてた記事によれば、ノーマン・ポドレッツら米国ネオコンのイデオローグたちも、アメリカ西部・南部の伝統的保守文化などではなく、マーベルコミックとロックンロールの戦後アメリカ文化で育った「サブカル保守」世代というが、それと似たようなものらしい。
「保守」の中身が伝統土着ではなく消費資本文化の利便性になりつつあるというのは、日本だけではなく、EU諸国まで先進国どこも同じ傾向ということか。だが「ただの国民」多数の本音はこっちなのかも知れない。
ところで同じ『論座』今月号巻末には、金日成の著作など朝鮮労働党の主催者側発表を刊行してきた未来社の老編集者へのインタビュ記事がある。今やむしろ貴重な証言なのだが……この人、とにかく戦前の朝鮮人労働徴用などの日本側の罪悪感ばかりを語る。いや、たぶん「いい人」なんだろう。それは痛いほどよくわかる。
こういう人を、拉致問題やらで「北朝鮮=悪の国家」評価が確定しきった現在の視点のみで後出しジャンケン的に糾弾するのは、ちょっ〜と可哀想な気もする。
(戦前中の朝鮮人労働徴用については、今や、強制連行ではなく自発的に来たことになってるとの説が強い。だが、形式上の雇用契約があろうと、内実が強制労働同様だった事例はゴロゴロあったろうという想像力は必要だ。日本もかつて立場が弱かった時代は、欧米から形式だけの内実は不平等な条約を一方的に結ばされたではないか)
――だが、現在の日本の被害(拉致問題)だけにこだわるのも、過去の日本の加害だけにこだわるのも、どっちも日本中心の一面的見方でしかない。最大の問題は、金日成金正日父子による朝鮮労働党政権が北朝鮮の自国民を苦しめてきたことではないか? 未来社の老編集者、北朝鮮「政権」への同情はあっても北朝鮮「国民」への同情が感じられない。
多くの人間がなぜか見落としてるが、1970年に赤軍派よど号ハイジャック事件を起こした当時、すでに左翼の側にも「北朝鮮みたいなスターリニズムの国なんかに行った赤軍派はアホだ」という非難の声は存在していた。
未来社の老編集者氏は、1950〜60年代の「帰国事業」のヒドすぎる実態がすでに70年代には暴かれていたのを知らんのか? 在日朝鮮人に対し帰国を呼びかけたが、祖国を「地上の楽園」と信じて北朝鮮に渡った者たちは、2級国民として差別され、無茶苦茶な生活条件で働かされたという悲劇を。そして今も、北朝鮮在住の人民の大多数は飢えている。旧ソ連共産主義を滅ぼしたのも、なんのこたぁない「ただの国民」の不満暴発だぜ。
外国を見るとき、日本中心にしか考えないのも、政権トップしか見ずその国民を見ようとしないのも、ともに問題の核心には至れない見方である。

真夏の死

70年前の7月8日というのは、とある男の命日だった。*1
スペイン内戦当時の人民戦線側の国際旅団で記録に残るただ一人の日本人義勇兵、ジャック白井。正確な生年月日はまったく不明、推定1900年頃、つまりおそらく享年37歳。
要するに今のわたしと同年ぐらいのはずである。
『オリーブの墓標』石垣綾子立風書房)や、川成洋、逢坂剛らの他の書物によると、白井は日本では極貧の食いつめ者で、渡米してコックになったが、そのうち1930年代の大恐慌にぶつかって労働運動に関わり、さらにスペイン義勇兵に参加したという。
スペイン内戦は、1936年7月、正当な選挙で発足した人民戦線政権に対し、フランコ将軍らがクーデターを起こしたことから勃発した。フランコ側は独伊の支援を受けてたので圧倒的だったが、ほどなく、国際共産党コミンテルンの呼びかけで人民戦線政権支援の国際義勇兵部隊が発足する。
で、共産党プロパガンダを能天気に信じる純粋まっすぐ君や、左翼ではないが自発的な正義感で身を投じた理想主義者、独伊のナチズム・ファシズム政権からの逃亡者、あるいはただのゴロツキなどが義勇兵にはゾロゾロ集まった。
白井もその一人だった。彼は当初、その料理の腕を買われて炊事兵にされたが、白井の口癖は「俺は飯を作りに来たんじゃない。ファシストを撃ち殺しに来たんだ」だったという。
1937年7月、ひまわりが咲き乱れるマドリード近郊のブルネテでは、連日30度を越す猛暑の中で激戦が続いた。白井は、敵の機銃掃射が続く中、仲間の救援が必要になり「俺が行こう」と言って塹壕から飛び出し、その瞬間に首を射たれ、一撃で死亡。
オリーブの墓標が建てられた筈の場所は、ただの索漠たる荒野となっているという。
――このおっさんの死に方は、わたしは、この上なく前のめりな「真夏の死」というやつを絵に描いて額縁に入れて美術館に飾ったような死に方と定義している。
不謹慎な言い方をあえてすれば、祖国では無用者が、異国では英雄として死んだのだから、最高の死に方ではないか。
まあ、現在のネット世論の見方では、白井もただのバカなサヨク、となるのだろう。
実際、白井は当時のスターリン万歳の共産党の公式見解をまるで疑わなかったらしい。
だが、わたしは、白井がそれぐらい頭の悪い人間だった点を踏まえ、むしろ、白井を、主義ではなく義侠心の徒と見なす。
多くの義勇兵たちは、野武士にいじめられる百姓を救う七人の侍のように、スペインの民衆を救うという利他主義と自己犠牲のために、結集し、戦い、死んだ。
(今ではこういう左翼ロマンチシズムを冷笑しかしない人のほうが多数だろうが、大東亜戦争インドネシア独立などのため白人列強国と戦った日本兵とどう違う?)
少なくとも1937年には、連帯すべき「世界」「公」があった。当時の左翼は、間違っても「私翼」「個翼」ではなく「公翼」だったのだ。
――もっとも、『スペインを知るための60章』野々山真輝帆(明石書店)などを読むと、今では当のスペイン国民自身は、内戦を忘れたがっているらしい。
ヘミングウェイオーウェルをはじめとする外国から来た義勇兵たちの活躍は、今日も”スペインの外では”語り草となっているが、当事国民には、内戦はさっさと忘れたい痛恨であるようだ。何しろ親子兄弟が敵味方で殺しあった話だって多いというのだから。
スペイン内戦は、義勇兵たちの(半ば勘違いな)活躍も虚しく、人民戦線の敗北に終わる。
(敗軍となった人民戦線支持者の多くは、ピレネー山脈を越えフランスへ逃亡した。彼らはその後、ナチス占領下のフランスで抵抗運動の最前線に立ったようだ。フランス人のピエール・ヴィラールが書いた『スペイン内戦』(白水社クセジュ文庫)によれば、1944年8月のパリ解放時、市庁舎に集結したレジスタンス軍のハーフトラックには、1台1台に「マドリード」「バルセロナ」「ブルネテ」「グアダラハラ」「ゲルニカ」等々と、スペイン内戦にまつわる痛恨の名前が記されていたという)
こう書くと皮肉や嫌味にしかならんが、白井の死は「何にもならなかった」あたりまで含め、最高の「真夏の死」かも知れない。
なぜなら、青春とは無償の行為を指すからだ。
で、青春など遠く過ぎたわたしは、保身と日銭のことだけ考えて今日も生きている。

*1:あ、悪りぃ、他の資料じゃ7月11日て書いてあった