電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

多数派の中の少数派/少数派の中の多数派

以前「街宣右翼愛国者のイメージ悪化を狙った反日勢力の自作自演」という俗説の深層について述べた。
http://d.hatena.ne.jp/gaikichi/20080605#p2
が、しばし前、デヴィ夫人北朝鮮擁護っぽい発言をしたので右翼に押しかけられたとかいう事件(←どうでもいい話だ)が起きたとき、Yahoo!ニュースのコメント欄でまたこの俗説を必死に力説する書き込み(書いた当人は勝手にすげー使命感持ってるんだろな)を見かけたので一人で勝手にウンザリしてたら、その後、ちょっと面白い話を仕入れた。
越智道雄『オーストラリアを知るための55章』明石書店isbn:4750321923)に「白豪主義症候群」という項目があり、その中でこんなことが書かれてる。
オーストラリアには有色人種の移民を嫌う白人による「白豪主義ナショナリストが存在し、その代表者にロン・ケーシーという芸人がいて、彼は歯に衣せず「カンボジア難民なんか羊運搬船に乗せて送り返せ!」とかいった過激な差別発言で人気を博していたという。どうやら、アメリカにおけるラッシュ・リンボーみたいな人らしい。
このロン・ケーシー、思想的には当然バリバリの右派である。さて、オーストラリアは国旗を見ればわかるとおり大英連邦所属で、今でも正式な国家元首は英国王だ(総督がその代理をつとめる)。したがって、オーストラリアの右翼といえば王党派が相場だ。
ところが、にもかかわらず、ロン・ケーシーは反王室の共和主義者なのだという。
なぜか? 彼はアイルランド系なのだそうだ。
さすが越智道雄先生、ホント面白いところに目ぇつけたなあ。
イギリス本国の横っちょにあるアイルランドは、かつてはイギリス最初の植民地になり、独立後も北部はいまだイギリス領なので急進派のIRAが反英テロをくり返した。
古来アイルランド固有のケルト文化はかなり衰退したが、今でもアイルランド人は英国王を教主とするイギリス国教会に対してカソリックを信奉している。そりゃ英国王室を尊敬しないわけだ。でも、そういう日陰者ゆえにこそ有色人種排訴を叫ぶのかもしれない。
どうよ?
そういやヒトラーは純粋なドイツ人つぅよりオーストリア人、スターリンは純粋なロシア人じゃなくてグルジア人だったっけなあ。辺境出身者、マイノリティほどナショナリストに転じるのは世界共通ってわけだ。
逆に考えると、安定した多数派には、わざわざ躍起に愛国を唱える必要はないのだろう。街宣右翼にもネトウヨ嫌韓厨にも積極的に共感しない日本人の多数のように。

歴史のある白人/歴史のない有色人種という逆説

畏友ばくはつ五郎氏の勧めで映画『グラン・トリノ』を観る。が、まじめな感想文はすでに彼が書いている。
http://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20090502
なので、当方はしょーもない部分の話をする。

アメリカのヤンキー(←同語反復)

まず、前半のアジア系(モン族)とヒスパニック系の不良グループがののしり合う場面で、世界どこでも不良ってこんな感じだよなあ、と、わけもなく嬉しくなった。もちろん、こういうすさんだ不良が身近にいて自分が絡まれたりするのはゴメンだが。
で、なぜコイツらはすさんだ不良なのか?
クリント・イーストウッド演じる老白人の主人公ウォルトは、若い頃には「アメリカの大義」を信じて戦争に行き、その後は由緒正しきブルーカラーとして汗と機械油にまみれてメイド・イン・アメリカの自動車を作り、家の庭でも家電製品でも全部自分で手入れする。
アメリカは開拓の国だ、もともとは先住民のものだった土地を戦って手に入れ、家でも何でも、何もないからゼロから自分で作るものであり、そのことに労働の喜びを感じるというライフスタイルを百年以上かけて築いてきた。
――が、そのような、本来は自分で手を動かすことで成り立ってたアメリカ白人のライフスタイルの誇りは、戦後の急速な産業化と、先ごろの金融破綻にいたるその失速で、内部から崩壊してしまった。
アジアやヒスパニックや黒人は、そうして没落した白人の隙間に入ってきたわけだが、彼らは、アメリカに来た時点で本来の民族文化の足場なんか失って、アメリカ産業の結果部分のそれもジャンクな最末端だけ食らって育つことになった。さらにアメリカだから、学にも職にもあぶれたボンクラでも、ドラッグも銃も簡単に手に入るからタチが悪い。
しかし、この映画では、だからこそ、もはや滅び行く白人である老いたイーストウッドが、その百年以上かかって作られたアメリカ流ブルーカラー男のスタイルを、若く何もない有色人種のボンクラに継承させようとする、というわけだろう。これは単純な白人文化の押しつけではない、自分の生活を自分で作ることの継承なのだから。

余談1

この映画でのイーストウッド演じるウォルト爺さんは、『オバケのQ太郎』でいうところの神成のおじいちゃんみたいに見えなくない。オバQでの神成の爺さんは若いアメリカ人のオバケであるドロンパをホームステイさせてたわけだが、そう考えると立場が逆転だ。
従来、老人の知恵を授けるのは東洋人の側だった。1980年代には、白人少年が空手を習う『ベスト・キッド』なんて映画がヒットしたっけ。それからすると隔世の感という皮肉。

余談2

わたしが見に行った映画館ではけっこう若い客も入ってたんだが、アジア系顔のモン族のおばちゃんたちの姿(とにかく大勢で群れて、客人のウォルトに「ホレ、これ食いなさい、うまいよ」とばかりに、やたら大量の料理を出す)には、劇場内でも失笑が聞こえた。
この場面はわたしも失笑が漏れずにいられなかった。
ひょっとすると、若い観客は「ああ『中国人』ってこうだよねえ」と笑ったのかも知れないが、わたしは断固「ああ、日本でも田舎のおばちゃんってこうだよねえ」という意味である。いや、だって本当にあんな感じだ(った)ぜ、日本のおばちゃんも。

余談3

ところで、イーストウッド演じるウォルト爺さんは、かつて朝鮮戦争で勲章もらった元英雄という設定で、それが若造を鍛えようとする。
それでふと「あれ、これって『ハートブレイク・リッジ』のハイウェイ軍曹の、さらにその後、とも読めなくない設定じゃん!」と気づく(これは1986年の作品で、すでに当時からイーストウッドはオイボレ役だ)。
で、パンフレットに載ってる蓮實重彦センセイの解説読んだら、博識そうに過去のイーストウッドの作品の、『ペイルライダー』やら『ファイアーフォックス』やら『許されざる者』やら引き合いに出してるのに、一言も『ハートブレイク・リッジ』には言及がない。
あーそーですか、おフランス帰りで元・東京大学学長の蓮實大先生なんかには無視されるよーな作品ってわけですか……。

伝統なき愛国心/連続性なき伝統

先に「自分の生活を自分で作ることの継承」って書いたが、これは他人ごとじゃない。
今の日本の若い愛国者は、日本の伝統文化ってやつを、靖国神社遊就館のガラスケースにきれいに陳列されているようなものだと思ってるんじゃないかというフシがあるけれど、確かにあれも日本の伝統文化ではあるが、あくまでその一側面でしかない。
本来、伝統文化とは、生活環境やそれを成り立たせる共同体、風土とセットで成立している。戦争のときだけ取り出すきれいな錦の御旗とかではなく、毎日触れてるヌカミソのにおいがするよーなもののほうこそが「生きた」伝統文化なのだ。
たとえば、東北の農民は江戸時代から白菜の漬け物食ってたとか思うのは大まちがいだぞ。白菜は明治以降に大陸帰りの人間が持ち込んだ野菜だ。柳田國男はすでに大正時代当時、牛肉鍋を伝統料理と思い込んでる世代を嘆いてた――偉そうに愛国心を語る一方で、こういう話をくだらないとか思う輩こそ、日本の伝統をないがしろにしてるヤツだ。
もっとも、同時に、伝統は時代状況とともに変転するものでもある。
三島由起夫も『文化防衛論』でそういう話をしている。日本はヨーロッパみたいな石造り建築の国じゃなくて木造建築なんだから焼けてしまえばそれまでだ。江戸時代当時の人間だって、奈良時代当時の伝統などほとんど無視してたろうさ。つまり、現在を基準になんでも「昔の人」とひとくくりにするのもまたズサンな理解、ということだ。
ともあれ、現代に生きるわれわれが、戦前の軍人とか戦国武将とかの昔の人の言動を引き合いにして日本の精神だなんだと何かを語りたいなら、その当時の人間が、どういう生活環境条件の実感の中にあって、そういう言動をしてたかまで込みで考えなくてはなるまい。
自分も仕事でついそれを見落としかけることがあるだけに、今回は自戒込みだが。