電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

生存報告

年頭うっかりブログを放置していたら二ヵ月ほど間が開いてしまった。また仕事が詰まってたからで、最近刊行されたもので執筆参加したものを述べておくと以下の通り。
・『世界の神々の意外な結末』(isbn:4569777627
また神話の本。当方は、エジプト神話、メソポタミア神話、ケルト神話の章を担当。結果的に『Fate / stay night』でのアーチャー(ギルガメッシュ)、ランサー(クー・ホリン)、セイバー(アーサー王)の三大英霊の元ネタ話を書いたことになる。
・『世界の独裁国家がよくわかる本』(isbn:4569673872
前半が北朝鮮など現在の独裁国家、後半がナチスドイツなど20世紀の独裁国家。当方は、トルクメニスタンほかの旧ソ連圏と、リビアジンバブエほかアフリカ諸国を担当。
・『世界の海賊 伝説と謎』(isbn:4569673430
海賊の人物列伝と雑学編で構成。当方はまえがき部分と、女海賊アン・ボニー&メアリー・リード、村上水軍などのほか、類書では普通載ってない、日露戦争後に「海賊会社」を作ろうとした石光真清の話、大正時代にソ連船を襲った江連力一郎の話とかを執筆。
――ところで、PHPの歴史雑学本などでは『世界の神々がよくわかる本』以来、ほとんどいつも同じメンバーで書いてましたが、上記の『世界の独裁国家がよくわかる本』から、「SKIT」というライターグループ名を名乗ることになりました。いつも音頭を取ってる畏友・奈落一騎氏の発案。英和辞典で引くと「戯文」という意味らしい。

現代劇は神話に回帰するのか

PHPの「神々」シリーズはいまだわりと好評らしい。それで相変わらず神話伝承の本の仕事をしていると、漠然と思うことがある。
しばし前「コードギアス反逆のルルーシュ」本『クリティカル・ゼロ』で一緒に仕事した成馬零一氏(id:narima01)が「人間芝居とキャラクター芝居」という話(http://d.hatena.ne.jp/narima01/20100113)を書いていた。
昨今「キャラクター消費」という言い方があるが、それこそ近代文学成立以前の神話や伝承の人物はみな、ギリシア悲劇の英雄ヘラクレスとか三国志演義の忠君孔明やらのように、リアルな人間像ではなく「キャラ」として消費されてきたものではないか。
筒井康隆文学部唯野教授』の中では、ノースロップ・フライの『批評の解剖』を援用して、文学は以下のように発展してきたと述べられていた。
 1.神話(主人公は神様)さしずめギリシア悲劇とか
 2.恋愛小説・冒険小説・伝奇小説(主人公は英雄)騎士道文学とか
 3.悲劇・叙事詩(主人公は王侯貴族とか)「ハムレット」とか
 4.喜劇・リアリズム小説(主人公は普通の人)「ドン・キホーテ」とか
 5.風刺・アイロニー(主人公は戯画化された存在)「文学部唯野教授」とかw
つまり、時代が下るにつれ主人公が神聖性を失い、等身大のリアルな存在になってきてる。
上記『世界の神々の意外な結末』の執筆中にもこれを痛感した。たとえばケルトの神話伝承とひとくくりにされているものでも、光の神ルーなどアイルランドの国造りの神々は人間離れした存在だが、フィアナ騎士団伝説、アーサー王伝説、と後代に成立した話になるにつれ、主人公も普通の人間に近くなる。ギリシア神話や日本神話も同様。
さしずめ日本映画も、歌舞伎や講談の流れをくむ古典的チャンバラ時代劇から、1950年代以降の黒澤明の時代劇、1960年代の高倉健全盛期のヤクザ映画、1970年代の東映の実録ヤクザ映画路線……と、主人公の等身大化リアル化が進んできたことになる。

聖俗や貴賤の「落差」の需要

で、フライ牧師の説によると、主人公の等身大化が進むと、さらに普通の人以下に戯画化された風刺やアイロニーとなり、さらにはカフカジェイムズ・ジョイスなどのように、近代人を描く文学というより神話じみた作品に回帰するのだという。
『クリティカル・ゼロ』での取材時、谷口悟朗監督に、『コードギアス』は「近代文学」ではなく「神話」ですねと言ってみたら、そうだと答えられた。
アニメでも『ヤマト』→『ガンダム』→『エヴァ』という変遷が主人公の等身大化リアル化、さらには普通の人以下のダメな自己像という自嘲への流れだとすれば、主人公が皇子で独裁者の『コードギアス』は、さしずめ神話的キャラ的主人公への回帰なのか。
では、なぜ近代文学的な「主人公の等身大化リアル化」がある一定まで行き着くと、今度は再び神話的キャラ的な人物像が出てくるのか?
PHP『文蔵』2007年3月号での松本清張特集で、奈落一騎氏が、清張作品がドラマ化されやすい理由は、清張作品には、金持ちもいれば貧乏人もいる、強者もいれば弱者もいるという「落差」があるからで、物語とは本来そういう「落差」から生まれるものであり、満足でもないが不満足でもない曖昧な内面が永遠に続く話などドラマではないと述べている。
つまり、世の中に聖俗や貴賤の別というものがなくなり「普通の人間」ばかりになっては、劇的なドラマも成立しなくなって面白くない、という話になる。
以前も書いた話と関連するが歴女ブームとかも過去の時代にあった「落差」に魅力が見いだされてるからではないのか。
しかし、これを突き詰めゆくと「聖俗や貴賤の別などなく皆が平等で自由であるべし」という近代の価値観は果たして本当に無条件に正しいのか? という話に行き着く。

人間は不自由にもそれなりに順応する

実際問題、仮に、一部の人間がずっと権力を独占して階層が固定化しているが、とりあえず普通に日常生活は送れて、よほど耐え難い貧困や不当な弾圧や戦争もないという政治体制だったら、ほとんどの人間はそれに順応してしまうのではないか?
案外、江戸時代の大部分の時期は、そういう状態だったのかもしれない。
確かに、たまに大飢饉もあれば幕府が悪法を出すこともあったが、基本的にはほぼ平和で、対外戦争はないし、良くも悪くも社会の変動を促す異物は入ってこない。それで均質性と順応性を美徳とする日本人の性質が養われたのではないか? という気がする。
河合敦『早わかり日本史』の記述によれば、日本の明治維新時の廃藩置県では、予想外に諸藩の抵抗は少なく進んだという。一部を除けば、トップの首は代わっても昨日までと変わらず働く人々……この図式、敗戦後に占領軍がやって来たときもほぼ同様。
他の国だったら、維新や敗戦のような政変が起きれば、もっと激しい血みどろの内戦や陰湿な地域対立が起きたろう。アメリカでは南北戦争時、北軍中央政府)による南軍(分離派)への徹底的な殲滅戦が行なわれたし、ドイツでは第一次世界大戦後、敗戦を招いたプロイセン中心の政府に対するバイエルン州の分離運動が起きた。
そう考えると、皮肉な話だが、日本人は鎖国下の幕藩体制が二百年以上続いたことで相当平和的な国民性を身につけたのかもしれない。代わりに自主性は低下したかもしれないが。

不自由は本当に不幸か?

上記『世界の独裁国家がよくわかる本』の執筆中も、政治体制は独裁でもそれなりに国民は順応していたり、独裁だから全面的に悪いと言って済ませられない面をいろいろ感じた。
キューバは貧しいが教育と医療が無料で中南米では一番治安が良いし、リビアカダフィが外国企業を追い出して潤沢な石油資本を守ったおかげで国民生活は豊かだ。当然、北朝鮮ジンバブエみたいなひどい独裁国も多いが。
一方、マイケル・ムーアの『キャピタリズム』を観ると、自由な先進国のはずのアメリカでは、その自由さゆえ経済的強者が節度を失って世の中が荒廃してる模様。それを諫めるムーアは、社会主義でなく、神父や司教への取材を通じて古いキリスト教的な清貧と相互扶助を説く。これは左翼扱いのレッテル貼りのを回避するためかもしれないが、そこで持ち出されるのが、近代以前からの宗教的精神なわけだ。
現在、あらかじめ欲得の自由や聖俗貴賤の平等が保証されてることになっている国の人間は、それらはとにかく尊重されるべき権利だと思っている。
しかしだ、たとえばの話、深沢七郎の『楢山節考』の村に住む人々は果たして不幸か?
この作品中の村では住民が一人増えたら代わりに一人減らなければならない、つまり新たな赤子が生まれたら老人は死ななければならないという、近代ヒューマニズムに照らせば残酷な掟がある。だが、村の外を一切知らず、閉鎖環境内での自給自足経済が一応それなりに安定しているこの村の住人は、それを平然と自然に受け入れているのだ。
わたし自身は、しょせん戦後の平和で自由で豊かな日本しか知らない人間なので、今からそういう生活に順応できるかといえば、そりゃ無理があるだろうとは思う。
とはいえ、自由や平等が保証されているのが当たり前と思っている現代日本人の視点のみをもって、そうではない時代や体制に生きる人間を一方的に見下すというのは、相当に失礼な見方だろう。それを言ったら現代人も未来の人間よりいっさい劣ることになる。
――とまあ、今回はあえて、ある意味では保守反動バックラッシュ的なことを書いた。
でも実際、そういう一見前近代的な、聖俗や貴賤の別、不自由や不平等も、価値観のひとつとして見ることが、本当の意味で文化の多様性を認めるということだったりもする。
常により新しい物のみが最善と思い込むのも、逆に狭い想像力かも知れない。