電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

インフレ化もマンネリ化もしない視点

が近づいてるが、花粉が舞うので、わたしには引きこもり読書の季節だったりする(笑)

で、山田風太郎の『旅人 国定龍次』を読む。二年程前だったか『ダ・ヴィンチ』の風太郎特集で、「ブギーポップ」シリーズの上遠野耕平が、愛読の風太郎作品として、『戦中派不戦日記』『妖説太閤記』とともに挙げていたので気になってた作品だ。

内容は、反骨の博徒として有名な国定忠治の遺児である主人公が、渡世人修行の旅を続けるうち、当人もよくわからないまま倒幕維新の運動に巻き込まれてゆき……という具合。東海道随一の大家分清水の次郎長新撰組局長近藤勇といった歴史有名人が、物語上は主人公とは敵対しながらももっぱら好意的に書かれているあたり、風太郎にしちゃヌルいかな……とも思っていたが、ラストは凄惨だった。
難しいことはわからないまま持ち前の義侠心で勤皇の志士に与することになった主人公が、よりによって相楽総三赤報隊に入ってしまうのだ。で、勤皇派中枢の承認を得ないまま「年貢半減」を掲げた赤報隊は「偽官軍」として逆に討伐されてしまうわけのである(後世の朝日新聞社襲撃犯がなぜこの集団の名を借りたのかは不明)。

してみると、天下国家を動かそうとする中心人物の方を脇役に配し、敢えて一介のヤクザのリアリティで幕末維新を描く、という発想が、大文字の物語を視野に入れつつはぐらかすという物語を書き続けている上遠野氏の愛読の一つというのも頷ける、というのはちょっとうがち過ぎかな。

最近「モチベーションなき現代にリアルなヒーローとは」なんてことばかり書いてるが、そういえば上遠野耕平も、我が同世代で、それを模索している一人かと思える。
電撃文庫の「ブギーポップ」シリーズは少々濫作気味でワンパターン化のきらいもなくはないが、この手の「読書一年生」向けライトノベルが、もっぱら単純な「萌え」か「バトル」という快楽に二極分化してるらしい状況下、かなり誠実に頑張ってると思う。

ブギーポップ」シリーズは、乱暴に言ってしまうと、ほぼ毎回、特殊な超能力の持ち主が、当人は善意のつもりで何かを始めるのだが、そこでトラブルが起こり……結局、事件を最終的にはブギープップがジャッジメントする、といった具合だろうか。
善意が人を救うとは限らないとしつつ、その善意自体は否定せず、なまじ人並みはずれた能力の持ち主ゆえ、当事者たるより傍観者となろうとする心性(というのはインテリの心性だ)への疑念が繰り返し語られる。そこには、大それたヒロイズムなど成立し得ないと自覚しつつも、この世に正義や善意があって欲しいという意志が読み取れなくもない。

ただ、わたしとして複雑な気分にならざるを得ないのは、どうも同シリーズの売上を支える愛読者の大半(下手をすると9割くらい?)が女子らしい、ということである。たまーに「ブギーポップ」の同人誌を見つけると女性の作品しかないし。
どうも、今日「男の子」向けに消費される物語の多くは、単純な快楽原則で「萌え」か「バトル」に二極分化し、ビミョーな人間関係の物語を敢えて読みたがるのはやはりもっぱら女子、ってことなのか(それは、世の大枠では、男は単純に、学歴や立身出世という競争原理で自己実現が叶うが、女はそうとは限らず、人間関係による自己実現(ミもフタもなく言えば恋愛)が人生の比重として大きい、ってことと関係ありそうな気がしてるが)

続けて『魔界転生』を読む(度々の映像化で有名だが実は未読だった)。深作欣二監督の角川映画版では柳生十兵衛天草四郎の対決が中心だが、原作では、世に勇名を轟かせた宮本武蔵宝蔵院胤舜らの剣豪が、それでも最晩年に抱いたであろう現世への妄執(それが理由で、一大剣豪たちが魔人に転生する)が丹念に描かれてる。
特に、政治家としての地位は得ながら武人としての名はいまひとつだった江戸柳生の但馬守と、逆に柳生本家の武名はありながら地位に恵まれなかった尾張柳生の如雲斎が相互に抱いていたであろう劣等感の心情など結構リアルだ(馬場と猪木みたい、ってか?)
それは発表当時(昭和39年)としては従来の剣豪イメージを覆すショッキングな描き方だったろうが、しかしそれを描く筆致はどこか淡々、飄々として、陰湿な気持ち悪さは余りない。何やら、深作の『仁義なき』シリーズと合い通じる感じがしなくもない。

「萌え」も「バトル」も単純な刺激だから、そればかりを主眼に置いてるとただインフレ化した表現になりがちなわけだが(「ブギーポップ」シリーズはインフレ化しない代わりにパターン割れなのかな?)、同じ事は人間心理を描こうとする物語にもいえることで、はじめっから「人間心理の暗黒面をえぐる」とか気張ってると、どこか仰々しいものになりがちなのだが、風太郎や深作は、普通に人間を描く内に「こういう人なら、こういう暗黒面もあったろう」と、ごく淡々とそれにたどり着いたような感じがある。

やっぱ重要なのは「普通」のもんをちゃんと見る、ってことなんだろな。