電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

■「正しいんだけど、正しすぎる」ことへの違和感

そういや最近リアルタイム新刊を読んでないな、と思い、宮台真司の最新刊『絶望から出発しよう』を読む。安価でコンパクトにまとまった読みやすい本だったんで。
http://www.wayts.net/TJ/006miyadai.htm
この本を手に取った理由は安易で、そういや一頃さかんに言われた女子高生論議もすっかり落ち着き、宮台が言ってたところの「まったり革命」なんてまったく普通の風景っぽくなり、彼の言説も今やすっかり現実に追い着かれたんじゃないか、さて宮台自身はそれをどう認識してるんだろうか……というような、いささか意地悪な視点からだった。

読み始めると、まず彼が95年に『終わりなき日常を生きろ』で提示した視点――つまり、もう日本は豊かで目的などない、なのにオウム信者などは大真面目に意味追求に走りすぎて狂信に行ってしまった、気軽に意味のないことに漂える援助交際女子高生のような生き方の方が時代に順応してるのだ云々――が相変わらず出てくる。
話としてはわかるが、わたしなんぞはそれでもやはり意味や目的を追求してしまうダサい男で、申し訳ないがそれが根本的に女子高生のように変われるとも思えないし、またどうしてもそういうタイプの人間が世に一定数はいてしまうのも仕方ないだろうと思ってる。
だから、ならばそういう人間は、オウムみたいにならないよう気をつけながら、まだなんぼかマシな意味や目的を目指すしかないんじゃないか、またそれを提示するのが責任ある大人インテリの仕事じゃないのか、と思うので、この点はどうしても反発してしまう。

また、バブル期の行政とゼネコンの癒着による都市開発が従来の土着的な地域共同体の風景を解体し、のっぺらぼうな匿名的空間を作り出し、それが若者や主婦がテレクラなどの匿名的不特定多数の出会いを求める志向を生んだ、という説が述べられる。
それも構造は理解できるんだが、宮台の口調にはどうしても、自分の見てきたそういう女子高生や主婦の実態(それは一面の事実ではあるだろうが)によって、建前的な「オヤジ」の欺瞞を叩きたくてたまらない、というような意志が先走ってるように見えて、そこが個人的好みではどうしても引っかかってしまう。

ところが、中盤以降は意外なまでに、とりあえずは納得できる話ばかりなのだ。
例えば、テレクラ業者は利用者に対し性犯罪の危険性を教える役割も果たしてたのだが、潔癖症の行政がテレクラ業者を規制して、中間に介在する人間がいないメール出会い系が普及したら、悪質なやり逃げや性犯罪が急増したというような話は興味深い。
わたしも人間のコミュニケーション欲求というもの自体は否定しようがないから、テレクラや出会い系も全否定は出来ないわけだが、そこで素人が無粋なマネをしないように、女郎屋のやり手婆みたいな役割が必要悪として求められる、という考え方は納得できる。

また、メディア規制法案について、議案成立の背景からして可決は避けらないと見た宮台は、ただ法案反対を叫ぶよりむしろロビー活動によって法案の中身を改善しようとした、というのも、ただ外野から批判するだけの単純な野党的発想よりはずっと建設的と思える。
ポストモダン的なインテリはとかく当事者たるより傍観者たろうしがちだが、宮台は、単なる言いっぱなしでなく、地位も学識もある人間としての使命感や責任感なんていう、きょうび野暮なものをちゃんとを引き受ける気概もあるようだ。それを思い上がりと言うのはたやすいが、わたしはこの点を軽薄に嘲笑すべきではないな、と思う。

そして終盤では、大東亜戦争に進んだ戦前の日本の天皇主義・アジア主義について語り、戦前の日本が正しく後進国で、西洋列強国への対抗上そのような政策は避けられなかったわけで、本来、戦後のように親米と愛国が両立し得るわけがない、と説明するのだが、それも下手な保守愛国論者より説得力がある。
この終盤部分を読む限り、小林よしのりを毛嫌いしてたはずの宮台先生も本心は反米愛国だし、マクロな大枠では、無学で無力な人々がそれゆえファシズムのような強権に流れたり海外侵略に走る構造を、ただ他人事として、野蛮で前近代的、と嘲笑的に見ているわけではなく、やむを得ないものと受け止めているようだ。これも基本的に異論はない。

しかし、それでもわたしがどうしても個人的好みで宮台先生とは物別れになりそうなのは、まず、ロビー活動とか法律を味方につけろという話は手続き論としてはまったく正しいのだが、人間そうそう冷静に手続き論だけで済むわけでもないだろう、それもまたギスギスしてしまうんじゃないか、と思えるからだ。そういやつい最近も、子供を殺された親が裁判所で被告を殴る事件なんてのがあったと聞く、法でも感情は収まらないものだろう。

それと、やはり宮台先生は、現に生きてる個別具体の実体としては「オヤジ」「日本の大人の男」には冷たいみたいだなあ、ということだ。現代日本の大人の男たちだって、個々には無力だから、寄らば大樹の陰で企業や行政の論理に絡め取られてるんだろうが、それにはまったく同情してないように見える。で、女子高生や主婦の生き方ばかりが称揚されてるのでは、一介の三十代の男としては読んでて元気が萎えるっすよ(笑)。宮台先生自身も現代の日本の四十代の男だろうに、その点はどう自己認識してるんでしょうか。

でも、わたしは根本的に宮台真司がまるきり大嫌いってわけでもないんです。
数年前、宮台があんまり女子高生とかばかりを称揚しすぎたためか、ある若い男の読者が、自分と、つきあってる彼女を比較して「自分のような真面目君のダサい男は生きてる資格がない」とかいって自殺するという事件があった。この時、宮台は、『完全自殺マニュアル』の鶴見済のように「勝手に死んだ奴と俺は関係ないよ」などとクールに振舞おうとはせず、「自殺した彼は若い頃の俺とそっくりだ」と言って真面目に対応しようとしていた。
わたしはこの件をきっかけに、宮台をただ嘲笑的に見るのを保留したわけだが、この最新刊を読む限り、その件が反映されているとも思えないのがちょっと残念だったりする。