電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

正義と手続き

日頃の怠惰のツケがきて、最近、奈落氏には劣るかも知れないが、急に忙しくなってしまった。
で、本を読んだりテレビを見たりなどほとんどなく、本屋で雑誌立ち読みくらいしかしてないのだが、その中で、先週頭に残ったトピック。

世情に疎いわたしは、りそなホールディング銀行に公的資金の注入が決まった件をまったく知らなかったのだが、週刊文春週刊新潮で、そのりそなHDの監査に当たっていたある若い公認会計士が謎の自殺したという記事を読んだ。
その会計士は、りそなHDの経営状態がボロボロであるという事実をつかんでいながら、りそな関係者やその内意を受けた会計士事務所の上司から、その事実を表沙汰にするなと圧迫を受けていたらしい。
天下の大手金融機関と、本来その経営監査を行うはずの監査法人金融庁関係者までがグルになっての、組織ぐるみの隠蔽工作である。が、結局りそなの破綻は周知の事実とるや、その会計士は遺書も記さずにいきなり自殺してしまったというそうだ。

自殺した会計士は職業倫理に篤く仕事熱心な人物だったそうで、週刊誌の記事では、これを、経営破綻を隠蔽しようとした周囲への抗議の自殺と見なしているが、その一方で、会計士事務所の関係者は「彼は鬱症になっていた」と発言していたとも書いている――いかにも、立場に窮した事務所側が「彼はキチガイだった」と処理してウヤムヤに済ませようしているのではないか、という書き方だったが、しかし実際そんな立場に置かれりゃ鬱症にもなるわな、という気もする。

普段のわたしからすれば大手金融機関の内幕だの公認会計士だのといった世界は、もっとも意識の対象から程遠いものなのだが、最近たまたま仕事で企業の決算報告書やら、それに添付される会計士事務所の監査報告書やらばっかり読んでるので、ちょっと気になってしまった次第。

この会計士の立場ってのは、言ってみれば、戦前の日本で張作霖の爆殺は関東軍の仕業だと気づきながら発言を封殺された報道関係者や、あるいは敗戦後の米軍占領下で帝銀事件の犯人は元関東軍七三一部隊の某将校と気づきながらGHQの命令で捜査を打ち切られた刑事みたいなもんだろう――と思えば、戦後60年も経って日本はタテマエ上は自由な民主国になったはずなのに、よくもこんなことが! と、まるで青臭い正義感に燃える中学生のように憤ってしまった。

しかしだ、中学生のハートのままでも32歳の一応大人ともなると、事実を隠蔽しようとした側の「大人の事情」というのも、何となくは想像できてしまう。
恐らく、会計士事務所は、りそな銀行(旧あさひ銀・旧大和銀)と長年の仕事上の付き合いがあって利害も骨がらみだったんだろうし、最近これだけ大手金融機関の破綻や不祥事が相次ぎ、国民の危機意識も高まってる中、さらにりそなまで破綻と知れたらどうなる、ここはどうにかして監査報告にウソを書いてでもりそなを延命させるべきなんだ、お前のせいで何千人ものりそな関係者が失業したらどうする? 金融庁だって大変なことになる、何万人もの人に迷惑がかかるんだぞ……とか言ったのだろうか

とすればまさに、戦時中の「みんながそうだから」という日本的世間的プレシャーの中で、
戦争をやめたくても抜けたくてもそうできない一軍人みたいな立場だ(しかもこの会計士氏の場合は、優秀な将校でそれゆえ負け戦が分かってる人だったといえるだろう)

――なるほど、こんなふうに言われれば、職業倫理に篤い会計士なればこそ頭を抱えるだろう。わたしなら、上司とりそなの監査役に殴り込むか、糾弾口調の遺書を延々書いて自殺しそうだが(笑)、かの会計士氏はわたしなんぞとは違うエリートだからそんな単純でもなく、進退窮まりぶち切れもできず、遺書も残さず自殺した、ということなのかな……

世の中、正しくても、正しいだけではどうにもならんことというのは実際ある。

同じく先週印象深かったのがモーニングの、かわぐちかいじジパング』だ。草加は、アメリカが核兵器保有し戦後世界の覇者となるのをやむを得ないと認めるが、しかし代わりにアメリカはその業を背負うため身をもって核の脅威を知るべきだ、と言う。
かわぐちかいじイラク戦争の結果とか2003年リアルタムの情勢を考えに繰り入れながら、60年前が舞台の『ジパング』の内容を切り替え反映してるのだろうか、だとすりゃ凄いよ、小林よしのりは「漫画」として『ジパング』に嫉妬すべきだぜ、と思った。

この草加の(というかかわぐちの)発想は、日本人的な業や倫理の発想としては正しいとは思った。わたしとしては、この発想には心情的には実によく納得できてしまう。しかし、現実に即して考えるには、たぶん正し過ぎる、倫理的に過ぎるだろう。現実の世界では、結果たまたま勝った者が、そのたまたまの事実状況に応じた形の倫理を後付けで作ってるものだろうからだ。
戦時中はみな大日本帝国万歳を唱えながら、敗戦すれば民主主義万歳となり、しかしそれなりにそれに応じた倫理を、つぎはぎながらも50数年かけて構築してきたりとか……(りそな破綻も、大東亜戦争のように、ぎりぎりまで敗戦を隠蔽しつつ、いざ負けを認めたら居直りなんだろうなあ)

じゃあ正義や理想に意味はないのか、結果の勝利者がすべてなのか、といえば、そうでもあるまい。
浅羽通明氏はイラク戦争について、毎日新聞のコメントで「『世の中は所詮強いものが勝つ』は事実だが、それで思考停止、では高等教育者がすたる。『人間は空を飛べない。しかし航空力学を研究して飛行機を作ったり、遠回りでそれを実現することはできる』と教えるのが高等教育だ」と書いていたそうだ。

まさに「知恵と勇気と工夫」ってことですな。

その浅羽氏は、個人誌ミニコミの『流行神』最新号で、上記の説を更に実践的に想定し、本気でアメリカの政治にコミットするならロビー活動という手がある、と書いていた。

果たして、件の公認会計士氏のように、周囲の同調圧力と日本的世間プレッシャーの中で本気で職業倫理を貫こうと思った場合、いかなる手続き手段があったのであろうか……もしも自分が同じような立場に立たされるなら、死ぬ前にぎりぎりまでは考えてみる意味はあるかも知れない。
――とか言いつつ、最後には「自分にとっては正義であってもそれでは勝てないこともある、まあ、しゃあねえ」ってのも必要なんだろうけど(笑)