電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

ギロチン、ギロチン、シュシュルルル…

今年、天本英世氏が亡くなった折に「あと、戦中派で似たような雰囲気を持つ人と言えば、岡本喜八水木しげる鈴木清順くらいかな」と書いてたが、その清順を生で拝む機会に恵まれた。

本日2003年9月16日というのは、無政府主義者大杉栄の殺害から80周年ということになるんだが、それを記念したイベント S16-Reclaim the Life<生の奪還>
http://a.sanpal.co.jp/s16/
のゲストの一人にまさに清順監督が来ていたのであった。

イベント自体はというと、大杉というのはいまだに、ただ政治的思想的文脈だけでなく、文学的、サブカルチャー的存在でもあり続けているということか、数は決して多くはないが、老若男女取り混ぜての面々で、瀬戸内寂聴の『美は乱調にあり』を愛読してたんじゃないかと思われるおばさま方や、パンク風の若者も少なくなく、イベントの最後には大杉の詩『自由の前触れ』を朗読するパンク青年のライブがあったりもした具合。

さて、で、なにゆえこの日鈴木清順監督の御登場と相成ったかというと、清順翁、数年前に、大杉と同時代の大正のアナキストテログループ・ギロチン社を題材にした映画のシナリオを書いてたそうで、その内容紹介などがされた次第。

会場に登場した清順翁、大杉殺害の年と同じ1923年生まれの80歳だけあって白髪に禿頭ながら、その物腰、口調はハキハキとしてまるで老いたる様子ナシ。

時に大正12年の夏を舞台に「近頃帝都に流行るもの、浅草オペラにテロリズム」という台詞で始まるその映画の内容はというと、「ギロチン社というのは名前が格好よいですね。しかし彼らのテロはことごとく失敗してます。そこで『美は乱調にあり』ならぬ『美はやり損ないにあり』という映画を考えまして」といった調子。
そう、以前に、末松太平『私の昭和史』に書かれた、昭和初期の右翼青年将校の、その意思は至って真剣ながら、ひたすらずさんな有様をちょっと書いたが、無政府主義の「ギロチン社」の素朴なる恐るべき青年達も、要人暗殺、資金強奪、憲兵隊に殺された大杉の復讐…と、ことごとく失敗し、日常の人生でもいいことないまま全員処刑されている。
果たしてそんな連中を主人公にして、鈴木監督、どんな映画を考えていたのか?

映画の冒頭、若いテロリストが決死の覚悟で悪徳資本家を討ちに行くと、その標的は既に殺されていた。一体誰がやったのか? ともあれ一度仲間の許に戻った若いテロリストは、しかし理不尽な思いのまま再び決死の覚悟で現場に向かおうとする、と、そこで先輩テロリストがこう言うのだという、「やめておけ。死ぬ覚悟は二度は出来ない」と。
これは鈴木監督が、同世代の特攻隊員にまつわる話として聞いたエピソードが元になっているらしい。なんでも、ある特攻隊基地では、一度飛び立ちながら、標的が見当たらなかったり、飛行機が故障して帰ってきてしまった者は二度と出さなかったのだそうで。

どうにも悪趣味と言えば悪趣味なのだが、鈴木翁、自ら死地に赴く者の死生観というものに妙に関心があるらしい。可能であるなら、今もっとも興味があるのは、ビン・ラディンにインタビューしてその死生観(イスラム原理主義思想のタテマエとかと関係なく、一個人としての)を聞いてみたい、などとのたまう。
(そういや、わたしがもっとも好きな清順作品『殺しの烙印』も、死にそうで死なない、と思ったらあっさり死ぬ、歯切れの悪い死の臭いプンプンだったなあ。ってゆうか、最近作の『ピストルオペラ』まで、そんなんばっか。でも妙にカラっと飄々としてるのが味)

鈴木監督の構想中では、主人公の若いテロリストは、テロに走る理由をこう語る。
「行列虫という虫がある。一列に並んで歩き、例えば鉢植えの鉢の縁にこの虫の群れを置くと、えんえん馬鹿みたいに鉢の縁をぐるぐる回り続ける。しかし、一匹の虫が脱落すると、虫の群れはその無意味な周回から解放される、俺はその、脱落する最初の一匹になりたいんだ」と。
これは確か、ファーブルの『昆虫記』の第一巻を翻訳した大杉のお気に入りの話だった。

ところが、先輩テロリストは自らの動機をこう語る。
「はじめは確かに、支配階級の打倒とかを考えていた、だが、今となっては、『退屈だから』と」。
しかし、退屈な世を転覆するための筈のテロは一向に成功しない、その内、一部の支配階級より、不特定多数の大衆がテロに巻き込まれなければ世の中変わらんのではないか? というヤバい考えにゆきつく……と、そこで大正12年9月1日、関東大震災が到来! というところで物語は終わるという。

――とまあ、清順翁のテロリスト映画の背景には政治的思想性はほとんどないのだが、その辺、ある意味却って充分に現代にも通用しそうな気もしないでない。
真面目に社会変革を考えてた先人への冒涜だって? いや、大杉なんて妻の神江近子と愛人の伊藤野枝と野枝の夫の辻潤の絡んだ情痴沙汰を始め、革命家以前に大ボンクラなわけで、しかしだからこそ、政治的思想の中身なんぞと別の部分で今なお妙な共感を呼ぶわけだし、清順翁は、やりそこないの集団だからこそギロチン社に愛嬌を感じてるんだろうし。

とかく共産主義系のテロが政治的理念やら組織理論が先行してたのに対し、アナキストの方が一個人的な実存と直結してそうだと思って清順翁はアナキストに着目したのかな。
少なくとも『スパイ・ゾルゲ』は、これに比べ、はるかにメジャーな人物を扱い、話のスケールも大きいが、大真面目に作りすぎて滑ってたらしいが、こっち幻のギロチン社の物語の方が面白そうに感じる。

と、そんな話の最後に清順翁は、大正アナキスト達とも交流のあった有島武郎、それから太宰治三島由紀夫の、テロの一変形、「セルフ・テロとしての心中」という行為について触れてた(三島のも「心中」となるらしい)、この視点もなんか独特だなあと思ってたら時間切れ。
最後に清順翁、もったいぶった口調で「――といった具合で、今日なお大杉栄が人気があるのは……」と妙なタメを作ってから「……皆様がアナキストだからです」と、人を煙に巻くようなオチをつけて退場。場内は妙な笑いに包まれたが、これも清順翁一流のサーヴィス、エンターテイナー的パフォーマンスとも見えどこかおかしい。

しっかし、清順は、わたしが、概ね同じような印象を抱いている、水木しげる岡本喜八、亡き山田風太郎天本英世などの中でも、もっとも軽快なモダニスト的な雰囲気を感じるのだが(なんてったって「ルパン三世」の演出だからな)、いささかお決まりの解釈過ぎるけれど、その清順翁も、その独特な死生観へのこだわりには、戦中派で特攻隊世代の経験が一生ついて回ってるのかなあ、との感を改めて強くした。
してみると、あの80歳とは思えぬ妙な若々しさと軽さは、老成の境地とかというより、既に若くして一回死んでる人だからなのかも知れないな……などと、まだまだ生臭く青臭いボンノウが捨てきれない30男は思ってしまうのであった。