電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

うそ臭くないヒーロー

昨年の秋に日記を始めてしばし後、珍しくリアルタイム物として『仮面ライダー龍騎』を取り上げたが、今やってる『仮面ライダー555ファイズ)』
http://www.tv-asahi.co.jp/555/
が、なんか俺としてはいまいち面白くない。

昨年『龍騎』の画期的な点は計13人ものライダーが登場することではなく、「ショッカー」のような明確な悪が存在しないことで、それが時代を反映してるとは思えながらも、冷戦時代育ちの昭和ヒーロー世代としては、なんだか落ち着かない感じがする、と書いた。

で、『555』には敵怪人である進化した超人類?オルフェノクたちを操る謎の企業スマートブレインという悪の組織(?)があり、偶然ライダーに変身できるベルトを手に入れちゃって戦いに巻き込まれた主人公とその仲間達、オルフェノクとなりながら人間の心を残してさ迷うはぐれ怪人のグループ、という三極構造が大まかにあり、その三グループ内にそれぞれ、二枚目とギャグキャラとヒロインが配置されてたりする。
そんな『555』は『龍騎』に比べ、一見話のスケールも大きく、全体的にシリアスなムード路線っぽいのだが、さて2クール目まで観てみると、なんかそれが滑ってる感がある。

龍騎』では善悪対立構図なんてものがなく「万人の万人に対する闘争」状態で、その主要な登場人物は、不治の病を抱えるがゆえにこそ永遠の生命を手に入れて享楽的に生きたい軽薄有能弁護士ライダーとか、戦いをゲームのように楽しみ自分の才能をひけらかすのが生きがいの生意気ハッカー学生ライダーとか、キレる中学生がそのまま大人になったような凶悪犯ライダーとか、とにかく、私的個人的動機で動く普通の人間ばかりだった。

が、そういうケーハクな物語と思って観てたら、まったく従来的なヒーローでも悪の使徒でもない連中のぶつかり合いの組み合せによって、化学反応のように意外なエピソードがあったりする。
例えば、意外な佳作だったのが、物語終盤に登場した仮面ライダーインペラー佐野のエピソード。この男の戦う動機はなんと金のため――元は大会社社長の息子だったが余りのボンクラゆえ勘当され、うだつのあがらんフリーターをやってる内に偶然仮面ライダーとなる能力を得て、で、何をするかと思いきや、主人公と、対立する各ライダーに営業スマイルで自分を売り込む始末……と思ってたら、突如父親が死去、遺産相続であっさり人生バラ色となりラッキー、と思ったものの、一度乗りかかったバトルは降りられず、仲間と思っていた相手にも裏切られ、戦いの場であるミラーワールド(宇宙刑事シリーズの幻夢界とか魔空空間みたいな異次元空間)から抜け出せなくなり、後悔のどん底で「俺は、ただ、幸せになりたかっただけだったのに……」と呟くという、日曜の朝8時のお子様番組としてはトラウマ級のオチをつけてくれた。

また『龍騎』で最も屈折した男、仮面ライダータイガ東條がまたえぐかった。孤高の英雄を目指し、そのためには容赦なく敵を倒すのもやむなしと思ってるのだが、本当は戦いも殺人も嫌い、じゃあなんで英雄を目指してるのかといえば「そうすれば皆が僕を誉めたり好きになってくれると思うから」などとほざく。でもって、孤高の英雄になるためにはまず身近な、自分の大事な人間を切り捨てられなければならない、という倒立したる価値観によって、親しくなった人間をまず襲うという内ゲバ好きの変態である。この東條、大学院生なんだが、やけに生活臭の漂う貧乏アパート住まいで鳥を飼ってるのが寂かった…

とまあ、『龍騎』というのは、大それた正義も悪もない等身大感で、格好よい昭和ヒーローに見慣れた世代には、良くも悪くも「斬新」ではあった。軽薄な奴と思えた奴が意外に深刻だったり、なんか凄惨な雰囲気を持つ奴がしかし同時にショボかったり、落ち着かない雰囲気ではあるが、人間の多面性による妙なリアリティが出てたとも感じられる。

で、それが、新人類?オルフェノクとの現生人類の闘争か共存か――とか何とかいうテーマを掲げた『555』は、一見まっとうなSFヒーロー物に戻ったように見えたんだが、これが大仰なばかりで書き割りくさく、毎回主要な登場人物の誰かがピンチで終わったり、展開の意外性はあっても、何とゆうか登場人物の深みや意外性がない。
一応、人間代表の主人公555(ファイズ)の乾と、オルフェノクになりつつ人間の心を残した木場の摩擦と奇妙な共感、で引っ張ってきたのだが、最近の展開ではこの両者がすれ違いの誤解で敵意を募らせる展開が余りにも杜撰で両方ともバカに見えてならない。
いや、瑣末なことですれ違う人間のドラマがやりたいんだろうが、それを成立させる日常の等身大としての人間描写がどっか足りなくて一面的過ぎるのである。

『555』にも屈折キャラは出てきて、例えば蜘蛛のオルフェノクとなった澤田という男がいて、幼馴染相手に「俺は人間の心を捨てるためきみを殺す」とか言ってるのだが、さて『龍騎』の東條なんぞと比べ、そこまでして人間やめて新人類になりたい動機が全然描かれず、登場時は不気味な存在感があったが、最近は妙に滑っている感ばかりが募っている。

――なんつうか、実は世に「ショッカー」のような「巨悪」なんてなくて、個々のフツーの人の、実に卑小な「金が欲しい」とか「地位が欲しい」とか「あいつを見返してやりたい」とか「奴らより凄くなりたい」とかいう日常的具体的な欲望だけがあり、それに邁進しまくった人が、ステレオタイプなイメージでいうと、例えば犯罪シンジケートのボスとか、独裁国のファシスト政治家とかになる、ってだけじゃないのか? って気もする。

思えば、日本のお子様向けTV番組でその辺をはじめて描こうとした一人が富野由悠季だった。『555』には『カンダム 逆襲のシャア』のベタベタなパクリの台詞が出てきて、主要キャラの一人がヒロインのことを「彼女は俺の母になってくれるかも知れない女だ」とか抜かすんだが、さてその台詞の元ネタのシャアが、ご大層な理念はさておき等身大の日常じゃショボい男で、しかしそれが別に矛盾でなく、むしろだからこそ妙に壮大な理念を必要とする男だった――とかいうあたりがよく理解されてない気がする……

とりあえず俺がちょっと引っかかってるのは、『龍騎』のメイン脚本家の小林氏は女性で(だからちょっとやおい臭かった)、『555』のメイン脚本家の井上氏は男性ってことなんですな。さてこれは、単なる作風でなく、男女の人間観、世界観の差もあるのか?

ところで思ったが、『555』も、また主人公は、巻き込まれでヒーローとなり戸惑いながら戦うって設定なんだが、次はいっそ、主人公が当初ヒーローの力を手に入れて私的個人的欲望で調子に乗って暴れまくり、しかしやがて「これじゃ俺は本物の怪人になってしまう」と思い至る、てのはどーですかね、東映さん? ってゆうか、そういうのこそ、巨大ロボットアニメじゃくなくて変身ヒーローだからこそできることだと思うんだけどなあ。