電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

日本的滅私奉公 アメリカ的突貫精神

図書館のビデオ棚にあった『ガン・ホー』
http://www.natural-life.net/aroma/movie/j020329.htm
が前から気になっていたのだが、先日借りてきて観る。

この映画、今となっては懐かしき80年バブル期の日米貿易摩擦問題やらジャパン・バッシングを扱った作品、というイメージがあらかじめ強くあったんだが、さて観てみると、その「歴史的」側面を割り引いても、こりゃサラリーマン映画の傑作だなと思った。

マイケル・キートンの演じる主人公の生まれ育った街は、自動車産業で栄えたブルーカラーの街――スプリングスティーンの唄の風景になるような「ブームタウン」だ――不況で工場が閉鎖され、斜陽に陥った街を救うため日本の自動車メーカーを誘致したもの、その日本人経営陣との間には様々な摩擦が生じてくわけだが……

全体的には皮肉なユーモアの漂う作品だが、残業を厭わず無遅刻無欠勤の滅私奉公と不良品ゼロの品質を求める日本人経営陣に対し、そんなガチガチなやり方やってられるか、という従業員の間に挟まれ、さりとてせっかく誘致した日本企業に逃げられては街の明日は真っ暗、というわけで、労使協調のための板ばさみに苦しみ、時に口八丁手八丁の方便も辞さぬマイケル・キートンの気まずさが実に良い(笑)

日本人経営陣側の無茶な要求にめげる従業員を逆に、「ジャップなんかに舐められて悔しくないか、アメリカがナンバーワンなんだ! 見返してやれ」という言い方で鼓舞する口車が絶妙、こういうノリでウォーと盛り上がる組合労働者も見てて悪い感じはしない。
改めて思ったのは、ああ、アメリカの労働組合ってのは、非常に活気があるが、それはイデオロギーと関係なく、本当に単純に、個々人の職場での即物的な賃金待遇と権利を主張するものだからなのね、という雰囲気。

日本人経営陣側の不満や戸惑いも描かれるが、家族が入院しようが同僚が怪我しようが職場への滅私奉公を求める経営陣に対し、主人公がさすがに部下の感情を慮って抗議すると、一見クールそうな眼鏡の日本人中間管理職は「敗戦国の我々はそうやって高度経済成長期を築いた」と答えるが、「じゃあなんで戦争に負けたんだ?」と問い返されたことに逆上して感情を爆発させる場面は切なかった。
ああ、そうなんだよ、なるほど確かに高度経済成長期以降に育った自分ら自身の感性はといえば、滅私奉公より私生活を取るアメリカ人に近いが、享楽的(に見える)アメリカ人そう言われると、自分らの親父たちを弁護したくなる感情になる。

――今年はたまたま同じ図書館のビデオ棚で『太陽の帝国』『アンボンで何が裁かれたか』と、「欧米人から見ての日本人」が描かれた映画を続けて観たわけだが、で、何となく、欧米人から見ての日本人の不気味さと、時に滑稽で可愛くさえ見える面というのが少し分かったような気がする。
つまり、彼らから見ると、日本人というのは、集団だと公の場では見事に揃って態度を合わせ、昆虫の群のように同じ顔で同じことを言う、が、私的個々人では実に即物的な目先の理由で行動し、偶然からでもひとたびそれを共有した人間には途端に人なつっこくガードを崩す――という辺りの落差が実に印象的であるらしい……と考えて、まあ確かに思い当たるフシはあるわな。

さて、この映画の冒頭では、主人公が誘致することになる日本企業(その名も圧惨自動車!)の研修風景というのが出てきて、それが、畳敷きの座敷で全身に「努力」とか「根性」とか書かれたお札を貼った社員が「わたくしぃわぁ! 会社のためにぃ、全身全霊を捧げてぇ! ――」などと絶叫させれれている、とかいう、いささかデフォルメの激しいものではあったが、確かに今も日本企業にこういう一側面があることは否めない。

で、またしても私的個人的私怨に話をこじつけてしまうが、わたしがこの場面で痛烈に思い出したのが、数年前、はからずも某マルチ風商法に勧誘された時の雰囲気である。
http://www.axcx.com/~sato/subaracy/gaikichi.html
この時わたしが連れてこられた会社というのは、さも自分らは、従来的な日本企業とは異なり、アメリカンなニュービジネスなのだ、という雰囲気を謳っていたが、さてその営業成績報告集会で、日の丸ハチマキ締めて「僕らはぁ、夢を実現するためェ、頑張るぞぉ!」って感じに絶叫する姿は、『ガン・ボー』中で半ばギャグとして描かれたどんくさい日本企業そのまんまではなかったか。

いや、件のマルチ風団体は、少なくとも表向き、別に企業への滅私奉公はまったく語ってはおらず、むしろ、参加者個々人が、金が欲しいだの高級車や高級ブランド品を得たいだのという「夢」(といっても金銭で実現可能なものばかり。100%「夢」ではなく「欲」と言い換えても可)を煽ってたわけだが、なんつうか、それでも享楽や消費を追及するというような、本来、努力や根性と一番正反対のはずのことさえ、日本企業の手に掛かると、「武士道」みたいな「享楽道」「消費道」という求道的な「道」にしてしまわなければ気が済まない、ってことですかね?
もっとも、日本人ってのは自ら好き好んでそういうのが好きなわけだが。

さて、じゃあ翻って「努力」や「根性」を嫌い、労働組合もただの即物的な権利主張としてるアメリカ人には、私的個人的打算しかないのか、というと、いや、アメリカにも私的個人的打算を越えたヒロイズムはあると思うんだね。
わたしは「アメリカ的男らしさ」というのは、マーク・トゥエインヘミングウェイ、というラインで確立されたんだろうと思ってるが、それは何かってぇと、幾つになっても、冒険心、挑戦心を失わないことがカッコいいんだ、ってことなんだろうな、と。

その辺は最近、『荒野の7人』を観て改めて痛感。『七人の侍』と比較すると、志村喬には、武士たる者、弱い農民を救わねば、といった自己犠牲的精神があり、他の侍も三船敏郎以外は皆基本的にその雰囲気があるんだが、ユル・ブリナーは、むしろ、澄ました連中が有色人種のインディオ農民を見捨てることにへそ曲がりらしく反発を覚えたような感じて、金にならないインディオ農民の用心棒を引き受けるし、他のガンマン達も、ラストでわざわざ一度自分達を見捨てた農民達を助けに戻るのは、彼ら自身の私的個人的誇りのためなのだろうな、という雰囲気がある。
こういうのも、日本的な湿った世間思想と違って、わたしも嫌いじゃないんだけどな。

――で、惜しむらくは、ブッシュJr.が大統領になって以来のアメリカからはそういう雰囲気が感じられず、アメリカ人もみんな勝ち組便乗になっちまったのかなあ、ということ……と、急にスケールの大きな話に結びつくわけですが、まあ今回は、拳銃社長のマイケル・ムーア感想の補完の暫定メモみたいなところで。