電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

野党の与党精神(の欠落)について

わたしは観てなかったが、タイムボカンシリーズの最新作としてやってた『怪盗きらめきマン』というのは、主人公が泥棒で、おなじみ悪の三人組が悪徳警官だという。

冷戦体制崩壊後10年で若者の価値観も保守化したと言われ、じゃあ昔からの政治的保守的立場の人が我が世の春かといえばそうでもなく、いまだエンターテインメントの世界では、あくまで「気分」としては、「大人」や「権力」は悪者、そうしたものへのアンチ、アウトローがヒーロー、という図式が支持される風潮がある(むしろそれゆえ、一見総勝ちの筈の保守的立場の人間が、フラストレーションを溜めてるように見えなくない?)
逆に、正面きって警官や軍人をヒーローとして描いたり、ナチュラルな愛国心を訴えようとする表現というのは、エンターテインメントとしてはどこか上滑りしてしまうというか、受けにくいらしい(警察のの視点で連合赤軍事件を描いた『突入せよ』、自衛隊を美化し過ぎた『ガメラ2』、『ワンピース』アラバスタ王国編など…)

以前からの自論だが、子供番組のヒーロー像は、1970年頃を境に変貌している。昭和30年代のヒーローは、月光仮面七色仮面も主題歌に歌われてる通り「おじさん」で、さもなくば鉄腕アトム鉄人28号金田正太郎君のように「子供」だった。ウルトラマンにしても初代のハヤタ隊員はいかにも普通の公務員然としていた。忍者部隊月光など公務員然としたおっさん軍隊ヒーローである。
それが、1971年の最初の仮面ライダー本郷猛や帰ってきたウルトラマンの郷秀樹になると、苦悩する「若者」のイメージが漂うようになる、ルパン三世のような泥棒のヒーローも出てくる。その頃になって、既存の大人社会にはまりきらない「若者」が発見されたわけだ。
その頃何があったか? グループサウンズなどの団塊世代の文化や学生運動の興隆である。以降、従来の、有能な普通の大人、というヒーロー像はむしろ目立たなくなってゆく。

――と、自分が説明しやすいんで子供ヒーロー像のお話から始めたわけだが、こういった傾向というのは、あくまで「気分」の話であって、「気分」としてアウトローや反体制を好む人間が、実際に政治的立場でサヨッキーかというと、それとは別問題。

かつて栗本慎一郎は、60年代ヒッピームーブメントとは、単なる厭世的ドロップアウトの「非体制」であって、既成の価値観を打倒しようという「反体制」ではなかった、と述べてた。むしろ、くっきりした政治的な反体制的立場というものが、60〜70年代に普及した消費文化の豊かさによって、なし崩しの内に解体された(社会を変革するまでなく、誰もがカラーテレビが買え、そっちの方が楽しい時代!)後に、そうした、気分としてのカウンター、アンチが普及したと見るべきかも知れない。

最近読んだ『フーバー長官のファイル』(カート・ジェントリー/吉田利子訳 文藝春秋)には、アメリカ連邦警察のFBIが、キング神父のような穏当な公民権運動家相手にも弾圧的な不法捜査、誹謗中傷工作を大量にやってた事実を克明に記してたが、これを読むと、60年代カウンターカルチャーが実はいかに現実権力に対しては無力だったかがよくわかる。
どうもアメリカでは、戦前からずっと、保守派を代表する共和党に対し、裕福な階層ゆえリベラリストを気取れる人間が民主党を支えてきた構図があり、民主党は、言ってみればリベラルとはいえ「大人」のリベラル、既得権者の枠内のリベラルで、それが欺瞞的と言えば欺瞞的とも言えたのだが(民主党ルーズベルトケネディも上流階級で、逆に共和党ニクソンなど田中角栄のような苦労人だ)、それが60年代に入ると、既存の民主党リベラリズムの枠内に飽き足らぬ新左翼として、ベトナム反戦運動や黒人公民権運動などが起きてきた、という図式があるようだ。
つまり、かつてであれば民主党中枢の裕福白人リベラリストの善意に期待したようなマイノリティ達が、もはやそれに頼らず、自前で声を上げ出したわけだが、これは決して良いことばかりではなかったらしい。というのは、民主党のリベラル派ならFBIに睨まれても、議会や財界に有力な味方がいたろうが、60年代の気分を背景にした新左翼というのは、大人や既得権を否定した結果、バックボーンがなく、だから裏ではいとも簡単にFBIの謀略にしてやられた、というわけである。

アメリカ民主党の見識不足や欺瞞もわかる。例えば、ケネディは上流階級らしい正義感と潔癖さでマフィアを弾圧したわけが、マフィアというのはもともと、アメリカ社会の中枢に入れなかったヒスパニックやイタリア系の後発移民の貧乏白人の組織で、地域社会の末端ではマフィアと警察の癒着によって、よそ者や無所属の個人犯罪者の暴走が防がれたりして治安が保たれている皮肉な面もある、といった清濁渾然の構図がわかってなかったらしく、それゆえケネディ暗殺の黒幕はマフィア組織、という説も強いらしい、とかね。
しかし、草の根でアンチやカウンターを唱えても限界があるんだなあ、とは再認識した。本気でアンチやカウンターを考えるんなら、アンチやカウンターなりに大人になること、既得権社会に組み入りつつ志を実現する与党精神ってもんが必要なんだろうなあ、と。
カウンターやアンチを標榜する者が与党精神を持ってまとまろうとしない結果というのは、保守的な既得権便乗者の一人勝ちである。ウェイン町山が『TVブロス』の連載で時々書いてるアメリカでのネオコン一人勝ちの具体的詳細を読むとそう痛感してしまう。

――と、同じ事は日本の状況にも全く感じるわけである。
はじめに述べた通り、いまだサブカルチャー、エンターテンメントの世界では、気分としてのカウンターやアンチは支持されてるが、現実政治の世界では、社民党(旧社会党)的なるものの凋落は凄まじい。確かに、現在の社民党は情けないまでにダサいし説得力もない。しかし、かつては「野党の与党」というべきものに明確な役割と背景があったはずだ。
自民党が昔ながらの農村社会地域共同体をバックボーンにしていたのに対し、日本社会党は、産業構造の変化によって生まれた、それに回収されない都市の末端労働者(それも特に若い、独り者の)の利害を代弁する立場だったのではなかったか?
どうも今の日本には、高校中退率の増加や若者の定職離れなどをみても、既存の大人社会の価値観へのアンチやカウンターの「気分」は漠然とあるようだが、じゃあそれを実体あるものに叩き上げる力も標榜するヴィジョンもないようである(無論、旧共産圏みたいなのを目指すのはナンセンスだけど)。

しかし、今の日本では、保守を標榜する側も、明確なヴィジョンがないように見える。これも、かつての保守的精神風土の土壌だった農村社会地域共同体の解体のためだろう。
ネット上では「ブサヨク」や「チョン」を嘲笑する発言は多く目にしても、そういう発言を行っている人間が、同じだけの力を込めて、日本や天皇やあるいは自民党を誉めているかというと、あまりそんな雰囲気は感じられない。単純に、人を嘲るのは簡単だが、何かを肯定的に標榜するのは難しい、ってことなんでしょうかねえ(でも、少なくとも日本の保守的価値観の中枢頂点の筈の天皇ご自身は、今さらチョン差別なんて口にしませんよw)

太宰治『斜陽』の新潮文庫版の解説で、柄谷行人がこんなことを書いてた筈だ。曰く、太宰は敗戦直後、アナキズム復権を唱えると共に「天皇はこれを護持せよ。恋い慕う対象なくば倫理は宙に舞う」と発言していた、と。
いわば、国家や政府なんかいらねえよ、という精神と、尊崇の対象を同時に肯定するという、一見矛盾するような発言だが、要するに、人間には見上げる「お天道様」が必要、ということだろう(その辺は矢作俊彦の『あ・じゃぱん』でも、社会主義国となり天皇を失った東日本の人間が冷戦体制崩壊まで抱えた鬱屈、という形で秀逸に描かれてたな)。

とりあえず、ただ現状保守便乗一辺倒でも、気分だけの解放無軌道一辺倒でも、いずれ人間が荒むように思う。だからって肯定すべき価値観を創りだすのはやはり難しいわけだが。