電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

モテへん野党男

先日の拳銃社長との電話雑談中リクエストされたのが以下の話題

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20031003-00000111-mai-pol

政治ニュース - 10月3日(金)1時15分
民主党>「なぜ女性にモテない」とレポート作成

> 「われわれはなぜ女性にモテないのか」。こんなテーマを大まじめに
> 論じた異色のレポートを、次期衆院選を控えた民主党が作成した。各
> 種世論調査では、同党の女性の支持率は男性のほぼ半分。選挙も間近
> となると「七不思議」(幹部)と言っていられず、実証的分析を試み
> たのだ。

> レポートは「女性も政権交代を求めているのに、民主党がそれに見合
> っていない」と締めくくらざるを得なかった。

> 岡田克也幹事長は、先の韓国与野党議員との懇談で、女性支持の低さ
> を嘆いたが、新千年民主党の議員が返したのは「野党時代は女性支持
> 率が低かったが、与党になったら上がったよ」。岡田氏もまた「その
> 与党になるために女性の支持がほしいんだ」とぼやく。

このニュースの話を拳銃社長に語ったところ、「政治的リベラルとダンディズムは両立しないのか?」という問題提起をされた。なるほど、これは一考の価値ある論点だとは思う。

これは要するに、ミもフタもない話、現実に力(権力、財力)を握ってる「強そうな」男の方が羽振りが良さそうでモテる、政治的立場としてアンチやカウンターと唱えてる状態の側の男は羽振りが良さそうに見えないからモテない、ということだろう。

しかし、反体制とか反権力とか政治的革新陣営のタテマエ的価値観の枠内にいる人間――つまり、とにかく男根的、権威的なものは悪である、女性は反権威的存在である、とゆう説を信じたがっている人々――は、上記の記事のような現実、つまり、実際に権力を握ってる、強そうな男の方がモテる、という事実を率直に認めることができない。
実際、政治的革新陣営を標榜する側としては「俺は金も力も持ってまっせ」という顔をするとイメージにそぐわない、というジレンマがある。

しかし、むかぁしは、モテる革新陣営の男、というイメージ像もありえたんだね。
例えば、戦前の日本共産党の理論家の福本和夫なんかは有名な女ったらしだったそうだが、これは当時は「マルクス主義=時代の最先端」という追い風と、難解な理論を振り回すインテリ風が格好良く見えた(一時期の浅田彰中沢新一みたいなもんか)、ということらしい。
また逆に、山口二矢に暗殺されたことで有名な社会党委員長の浅沼稲次郎なんかは、社会党が炭鉱労働者などを支持基盤としてた時代の人物らしく、野暮い感じだが、そこが素朴な温かみを感じさせる庶民的で力強い組合オヤジというイメージで人気があったらしい。
が、世の中全体が高学歴社会化し、第三次産業中心の総サラリーマン化した現代、今さら前衛インテリ理論家なんて尊敬されないし、機械油と煤にまみれた素朴な庶民派も嘘臭く、どちらのイメージももはやそれで好感を得られるというバックボーンを失っている。

いや、ちょっと人間像モデルをスライドさせて考えると、エコロジーオヤジというのはまだ少しは有効か。つまりC・W・ニコルとか椎名誠とか宮崎駿とかジャン・レノとか、せちがらい都会の文明社会を否定し素朴に生きようという系だ。これも依然人気はある――ただ、これらはそれこそ「反体制ではなく非体制」で、今や本気で生臭い現実政治の天下取りに取り組もうとする民主党にこのイメージは両立しにくいだろう。

と、きたところで、上記のタイプに収まらず、政治的リベラルとバンカラを両立させてモテた人間像として、大杉栄と、その大杉が多大な影響を受けたロシアのアナキストバクーニンを挙げたい。彼らは政治的には過激な革命思想家で、投獄や国外脱出などの経歴が、まるで国定忠治ロビン・フッドの如き遊侠の徒のように注目されてたわけだが、同時に、当時の高級軍人や貴族の血を引いており、上流階級の中に友人知己を多く持っていた。
ここがポイントである、政治的革新的立場と蛮勇、実は育ちが良い、という点の両立。

更に例をスライドさせると、近衛文麿は、同じ当時の日本の上流貴族であった西園寺公望にひっついてヨーロッパに行ってあっちの社交界にもちょっと首を突っ込んでみたり、また広く軍人から一部左翼の学者にまで知己を持ってて、当時の日本の中では、少なくとも皇道派や統制派の硬直した軍人よりはリベラルな立場の人間だった。
こういうことを言い出すと「国際情勢はどうせ全部フリーメイソンが云々」とかいう陰謀説と違わないように思われそうだが、アメリカ民主党の背景には東部エスタブリッシュメントの学閥ネットワークなどがあり、またヨーロッパでは近代まで長らく、貴族やら王族やらの社交界サロンの場において、富裕階級の嗜みとしての慈善(ノーブリスオブリジェ)の発露として福祉事業や女性や子供の人権向上などが議論されてきた側面がある。

要するに、上流サロンあってのリベラリズム、ということである。こういう場ではリベラルとダンディズムが両立しえる人間像があったのではないかと思うのだね。しかし、日本の(脆弱な)貴族制度は、敗戦の結果、GHQの方針によって解体され、代わりに日本の戦後復興は戦犯としての手垢がついてなかった産業官僚によって導かれることになった。
恐らくGHQのニューディーラー連中は、歴史のない人工国家アメリカのタテマエ的価値観で、単純に貴族主義は悪だと考えたのではないだろうか、まあそれも一理はあるんだが。
戦後日本の官僚主導主義は、官民一体で高度経済成長を成し遂げるのには効率よかったようだが、今にして思うと、文化的豊かさを背景としたリベラリズムの可能性が刈り取られてしまったのは惜しかったかも知れない。

で、なぜ我々はモテないと悩む管直人なわけだが、彼は元々一介の市民運動家上がりであった。あまり上流階層っぽい背景もない。それが一度は厚生大臣にまでなったのは偉いが、厚生大臣である。日本最高の高学歴エリート官僚の城で、まさに日本の保守本流、金と力の香り漂う外務省や財務省(大蔵省)からはたぶん見向きもされなかったろう。
民主党が鳩山兄弟を看板に据えるなら、現代の上流リベラリズム路線というイメージ戦略もあるが(鳩山兄弟の祖父は元戦犯の生臭い保守政治家だったけど)、それもぱっとしないというか、ひ弱そうに見えてしまう。

拳銃社長は、芸人の世界などにはダンディズムと反骨精神の両立があるが、という。確かにそうだが、これもそういう精神が許される特権的空間あってのものだ。エコロジーオヤジ路線もそうだが、結局、今の日本では、即物的な金や力の臭いのする保守オヤジ的でないダンディズムがあるとすれば、それは一般世間を離れた厭世観とともにしか在れないということなのか。