電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

中森明夫と大杉栄

「つまりさ、大杉栄ってのは……叶えられなかった夢なんだ。大杉の革命は、決してこの世では実現しなかった。だからこそ美しく見えるし、いつだって、そう、よみがえってくる。幽霊としてね」

そういうわけで、やっと今頃になって中森明夫アナーキー・イン・ザ・JP』(isbn:4103046325)読了。こいつは速攻読まねばと思いつつ、本屋ではしばらく品切れだった。
パンクに憧れる現代の少年と、どういうわけか幽霊として現代に復活した、大正の「ナンバーワン・アナーキスト大杉栄の言行を描いた思弁小説である(←帯には青春小説と書かれているが、そこは微妙な違和感)。
俺みたいな人間にはもの凄く面白かったのだが、なんというかツッコミ所も満載。序盤から三分の一ぐらいまでは、中森明夫ともあろう人が、言いづらいが、オジサンが今の若者に合わせたつもりでいまいち色々滑ってないかという印象。
まず、現代に復活した大杉栄につき合わされる主人公のシンジという少年はどうにも今の若者らしいリアルさが感じられず、読者を惹きつけるキャラクターとも思えなかった。
長年「ポップ」を標榜してきた中森明夫だけに、オタク的文学青年的な暗さを払拭したかったのはよくわかるが、旧訳版の『ライ麦畑でつかまえて』やケルアック『路上』あたりを意識したような、一人称「オレ」で「〜ってやがる」口調連発の、つまりちょっと不良ぶったような少年の一人語り文体が、今の世となってはなんだかわざとらしい。
作中後半まさに「今どきパンクなんて……保守的だなあ」という言葉が出てくるが、実際に昨今ヒップホップでもデスメタルでもなくあえてパンクに憧れる落ちこぼれがいるのか? そこはむしろ率直に、本来はおとなしい内向的タイプの少年が、あえて一皮剥けようと思って偽悪ポーズでパンクに手を出したら……という方が違和感がなかったと思う。
何より、本来、青春文学というものは、若者が未知の対象に出会うことを通じて自分の無力さを知り、それによって成長することがカタルシスを呼ぶものだ。村上龍の『'69 sixty nine』も、大槻ケンヂの『新興宗教オモイデ教』も、滝本竜彦ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』も、それゆえ、いつの時代も変らない作品として通じ得る。
ところが本作品『アナーキー・イン・ザ・JP』では、主人公シンジはただ大杉栄に振り回されてるだけで、結局、主人公自身が壁にぶち当たって、しかしそのことによって何かをつかむという実感がない。そこは青春文学の形を借りた思弁小説ということで良いけどね。
さらに、大杉栄が現代の新潮社の編集部に乗り込んだり、赤木智弘など昨今の論壇、文壇関係者をモデルにしたパロディ的要素(福田和也とか宮台真司とか一部の論壇人は、まんま実名で登場)も、俺のような人間は読んで大笑いしたけれど、いささか業界身内受けを狙った楽屋落ちのような寒さも否めない。
――しかしそれでも、本書は面白かった!

ひがまない男

本作中の、現代に復活した大杉栄の言動は、すべて「大杉栄なら言いかねん」「大杉栄ならやりかねん」という絶妙なリアリティと説得力に溢れている。これは単に「大杉栄の著作をよく勉強して文体パロディしました」というレベルではない。
大杉栄という人物の困った魅力――しょっちゅう国家権力に刃向かう事件を起こして逮捕、現代でも斬新に思える前衛的な文才、何にでも首を突っ込む貪欲な向学心と義侠心、どんな人間の前でも物怖じしない行動力、モテ猛者ぶりが災いしての情痴沙汰など、本当にデタラメな人物なのだが、それゆえ魅力的だから困る――は本当に見事に伝わってくる。
大杉栄は、社会制度の変革というより、個々人が社会制度に囚われず生きることを説いた(同じ革命家仲間の間でも、建設的な社会改良を説く人間から見れば夢想家である)。
大杉栄の言説が現在の政治的大状況に有効な打撃を与えられるかといえば微妙である、ほとんど精神論みたいな話で、具体的で建設的な社会改良プランはまるで乏しい。
しかし、大杉の言説には、ひがみっぽさはまるでない。国家のために働くことを堂々と否定し、不倫を重ねることヌケヌケと自由恋愛と称し、こうした新しい生き方を説くことで世間のひんしゅくを買うことも覚悟して受け入れている。ここが重要だ!
翻って現在の日本の論壇の若い連中は、右も左も、戦後の豊かな消費社会という社会制度はそっくり保障されたまま、その枠内での自分の権利しか言ってないようにしか見えない。
保守とか愛国とか言ってる若い連中は、女性や在日外国人のような「いわゆる弱者」ばかりが優遇されることをひがみ、外国勢力の悪口を言ったり、国家が自分たちを守ってくれることを要求しても、自分が自発的に国家のために義務を尽くして死ぬ気はない。
反体制っぽいことを言う若い連中は、金持ちやリア充、バブル期に良い思いをした年長世代をひがみ、社会に不満を唱えても、現状の安定した生活を捨ててまで革命闘争に身を投じるような気概はないし、世界のもっと不幸で貧乏な人間の存在は他人事と思っている。
中森明夫はあえて書いていないのかも知れないが、明治から大正期に生きていた大杉栄が本当に現代日本に復活すれば、まずは平成の世では「貧困層」を自称する人間でも個人所有の電話を持ち、風呂付のアパートに住んでいることに驚くことだろう。
冗談じゃない、明治から大正期といえば、貧困層から1ランク上の庶民だって、毎日同じ服を汚れてもすり切れても着ていたし、肉類なんて滅多に口にすることはなかった。
大杉が演説で鼓舞した当時の炭坑や製鉄所の組合労働者なんて、全身煤と油まみれで何日も風呂にも入ってない悪臭ぷんぷんの不潔な連中で、しかし、みずからそういう連中のところに飛び込んでいって、彼らのヒーローになり得たところにこそ、大杉という男の意義があるわけなんだから。
(余談ですが、本書を読んで多少なりともアナーキズムという思想に興味を持った方は、ひとつこちらの「アナーキー・イン・ニッポン」の資料館でも覗いてやってください)

"NO FUTURE"というダンディズム

さて「新人類世代」の代表的人物のように語られる中森明夫は、本来「ポップ」とはほど遠い全共闘崩れオヤジの政治的な左翼メンタリティを嫌っていた。
それが今回、戦前の革命家である大杉栄の話を書いたことで「今さらベタな左翼に再転向か?」と思った人もいるかも知れない。だが、そう考えるのはお門違いであろう。
1980年代、トンガリキッズを自称した中森明夫は、それこそ、政治にも社会にも背を向け、映画や音楽やファッションなど目先の明るく楽しい消費文化(サブカルチャー)のことしか考えないと居直った「新人類」だった。
しかし、今にして思えば、少なくとも現在のオタク・サブカル業界人よりは、みずからそんな生き方に居直った人間なりのダンディズムでもといえそうなものがあった。セコい保身など考えず楽しいことだけを追求する、核戦争が起きて世界が滅ぼうとも国家や社会に甘えついて助けなど求めず、文句は言わない、という態度だ。
中森の『東京トンガリキッズ』には、こう記されている。
「世界の終わる日、僕達は、次のバーゲンの最初の日の日付にしるしを付けるだろう。世界の終わる日、僕達は、おろしたてのアディダスからゆっくりと靴ひもを抜き取るだろう」
なるほどこれは一種のアナーキズムだ。
ある意味「宵越しの金は持たねえ」という江戸っ子の美学にも近い。まさに"NO FUTURE"。
――断っておくが、わたし個人はここで、かつての大杉栄の刹那的な生の哲学中森明夫の消費ダンディズムを手放しに全面肯定、礼賛する気はない。
それはそれで「あんたはそれで良いかも知れないが、世の中には、まず安定した生活が欲しい弱い庶民もたくさんいるんだよ」とか、「建設的生産的な考えはないのか?」とか「あんたがそう言えるのも、どこかに汗水流して食糧やオシャレな服を作ってくれる人がいるからだろ?」とか、ツッコミ所はいくらでもある。
しかし、一個人的な好みを言えば、少なくとも、目先の保身が自己目的化した現在のみみっちい左右の言説(国家や社会が自分を守ってくれるのは当然と甘えたうえで文句だけ言う態度)よりは、ある種の潔さを感じる。
アナーキズムというのは――社会思想である以前に――生き方なのだ。