電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

落合琢は悪の魔王か?

くり返すが、上記に挙げた「落合琢」氏のサイトが、本当に旧「リバティコープ」副社長の落合琢によるものかは判然としない。それらの内容は、本当に「普通の人のブログ」で、どこに出かけて何を買ったとか食べたとかそんな話しか書いていない。
だが、わたしはそれらを読んで、これがもし本当に旧「リバティコープ」の落合琢だったらと思うと、何か言い知れぬ居心地の悪さを感じた。「まるで『普通の人』じゃないか?」「何だよコイツ今さら『普通の人』ぶりやがって!!」と。
そう、正直に言おう、わたしにとっては旧「リバティコープ」副社長の落合琢は、永久に、下劣で高慢で強大な力を偉そうに振りかざす巨大な悪の魔王であってくれなければ困るのだ。だって、でなければ憎めない。(←馬鹿か?)
なるほど、現実には、カルト的・ファシズム的団体において頂点に立つカリスマというのは何者でもよく、憎むべきは命令されなくてもそれをみずから崇め奉って周囲の他人にも押しつけるような自発的ロボット信者を生み出す組織のシステムであって、教祖一人が全部悪いなどという思考発想は短絡に過ぎるなどということは、当時から承知している。
(たとえばオウム真理教の問題も、松本智津夫(麻原晃彰)一人が悪いと短絡に言うだけでは何ら解決にならない、あんな教祖にすがってしまう個々の信者の心理のあり方が問題なのだ。これに踏み込まなければ教祖を取り替えただけで同じことをくり返す人間はなくならない)
しかしそれでも、わたしは勝手な妄想で自分の脳内の「落合琢」を巨大な悪の魔王に肥大化させてしまった(←まるで中学二年生レベル)。それはまさしく、わたしが敵を憎めば憎むほどわたし自身の憎悪を反映して敵は強大に見えるという図式だ。

憎悪は楽である

おそらくヒトラーにとっては、ユダヤ人というのはおしなべて下劣で高慢であってくれなければならず、善良な弱者のユダヤ人などいてはならない困る存在だったろう。
かくして勝手な「脳内ユダヤ人」を作りだして憎んだヒトラーも、勝手な「脳内日本人」を作りだして憎む反日中国人も、それを裏返して「脳内中国人」を叩く単純な反中日本人も、勝手な「脳内アメリカ」を憎むアルカイダも、勝手な「脳内アルカイダ」に脅えるアメリカ軍も、そして勝手な「脳内落合琢」を憎んだわたしも、みんな同じなのである。
そんな身勝手な妄想は、現実の実物の敵の姿を知らなかったがゆえに成り立つ。だが、現実には、敵もタダの人(たぶん)なのだ。
憎悪というのは楽なのである。
確か『スターウォーズ』シリーズでヨーダ師匠がルークに「フォースの暗黒面」について教える場面では、憎悪によるフォースは簡単に身につくがそれではダメなのだ、と語っていたと思う。
憎悪ではなく愛情ならば、具体的な相手に対する愛情は、「どうすれば相手が気持ちよいか」という相互的なものでなければならない。ヤンデレのストーカーのような一方的愛情は結局うまくゆかない。この点、憎悪は相手の気持ちなど関係なく、いくらでも一方的な自己中心思考で良い。そりゃ楽なわけだ。

それでも「リバティコープ」批判を下げない理由

そこで翻って、ひとつ「落合琢」の気持ちを勝手に想像してみる(まあ、わたしの勝手な想像だから、てんで的外れの可能性もかなり高い)。
なるほど「落合琢」にとってみれば、「リバティコープ」の副社長をやっていたのはもう昔も昔の、人生のホンの一幕に過ぎない出来事かも知れない。せっかく過去の商売のことなんざスッパリ忘れて新しい人生を始めたいのに、いまだに自分は強大な悪の魔王か何かのように書かれる……たまったものではあるまい。12年も前のことにいまだに粘着する葦原骸吉という男は、本当に悪質なキチガイのようにしか思えないであろう。もっともだ。
――しかしである、だったら、わたしに対して正々堂々と正面から「俺は普通の人なんだ、昔のことを書くのはやめてくれ!」と言ってくれば良い(こんなキチガイじみた男では怖くて訴えられないのか? 実態は小学生とケンカしても確実に負けそうな軟弱者だぞ)。
だが、現在確証はないが、自分に対する非難はネット上で表示されぬように裏から工作しつつ、いかにも「普通の人」ぶりっこというのは、じつにいやらしい欺瞞に思える。
わたしがaxcx.comドメインのサイトに挙げていた「リバティコープ」体験記と、別の人物が作成した「リバティコープ」関係資料の再録は、ただ事実を記した物で、不当に事実に反する情報によって特定個人の名誉を毀損するものだとは思っていない。
そして「リバティコープ」はとうに倒産したが、多くのネットワークビジネスMLMマルチレベルマーケティング)団体は似たようなものであり、その事例の紹介は、私怨を超えた一般論として、広く世に公開しておく意味があるとわたしは(勝手に)考えている。
リバティコープの経営者である落合琢氏としては、当時のことは、周囲が勝手に自分を祭り上げていただけで自分の責任ではないと言うかも知れないが、少し冷静に考えれば、自分の部下がどれだけ押しつけがましい勧誘活動で多くの人間に不快感を与えていたかは把握できていただろう。彼がそれを直接命じていなかったとしても、経営者である以上、部下を管理する責任があったはずだ。
上記「落合琢」氏のサイトが旧リバティコープの副社長とは関係ない同姓同名の人物であり、Google八分工作の事実もないというのなら、正直に頭を下げて謝る。
わたしは今回自分の醜い感情も白状した。自分が正義と断言はできないとは思っている。
べつに、わたしの「リバティコープ」批判と同時に、別の誰かが勝手に「落合琢さんは立派な良い人だ」と述べても良いし、誰かによる葦原骸吉批判もあって良いのだ。
そういうものが「言論の自由」じゃないんですか?