電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

1&2.評論『評伝 宮崎滔天』『北一輝』

渡辺京二:著(isbn:4902854147 / isbn:4480090460

明治維新の輸出」というウルトラC

戦後には右翼とひとくくりにされた人々のなかでも、明治期〜戦前の大アジア主義者の思考は、現代の人間とはまるで根底から違う。
今日でこそ「革命」という言葉は左翼を連想させて嫌がられる。が、明治前期までこの言葉は、むしろ東洋古来の「仁政のための易姓革命」を意味したのではないか。
維新後の新政府は西洋帝国主義のマネを進めたが、幕末の倒幕運動はむしろ、横井小楠などに見るように儒学の理念にもとづいていた。
中国革命を支援した宮崎滔天は、維新後の生まれながらも、儒学で育った武家知識人の生き残りだ。彼はなんと、維新運動の挫折から「明治維新革命の輸出」と発想を飛躍させ、孫文や黄興ら清朝の革命家たちの支援に乗り出した。
そもそも明治期はまだ「日本」という概念も固まってない、明治期の大アジア主義者は現代日本人よりはるかに国境・政体の概念から自由だったのだ。
滔天は言った「国は地方の名称だ。天が定めたものではない」と。

彼は第一革命の中国から帰国したとき、「さあ、今度は印度だぞ!」と家人に揚々たる声をあげたという。(309p)

宮崎滔天が考えたのは、いわば「鼓腹撃壌」東洋的アナーキズムの国際的連帯で、彼や玄洋社頭山満ら大アジア主義の理想は、国境を越えた「大アジア連邦」のようなものだったらしい。だが、時代が進み「大日本帝国」が確立されるにつれ大陸浪人は政府の走狗と化してゆく……そして滔天はこんな苦言を残した。

支那民族は民族として発展すべき総ての要素を兼備して居ます。それに引替へて我日本は如何でしよう。国家的に亡びたならば、民族としての日本人は、私は心細く感ぜざるを得ないのです。されば理想的には如何と云ふに、是は尚更駄目です。日本は理想の存在を許さぬ国家です」(317p)

明治憲法社会主義憲法だった!?

さらに宮崎滔天より13歳下の北一輝が書いた『国体論及び純正社会主義』を読み解けば、なんと! 「社会主義革命は明治維新の必然的な延長」となる。
北は大日本帝国憲法の制定をもって日本は制度上は社会主義になったと言ってるのだ!! 今でこそ戦後の日本国憲法との比較で明治憲法専制的とされるが、当時はむしろ「維新 → 自由民権運動憲法制定」という流れは革命の進展だった(それに当時は1917年のロシア革命以前だから、社会主義のモデル像もまだない)。
北の一大発明は天皇を革命のシンボルにかついだ点だ。が、天皇大権による上からの変革を待つしかやることはない。このため北一輝は、ファシスト党ナチス党のような大衆運動は起こさなかった。しかし結局、北を信奉する青年将校たちはしびれをきらして暴発し、226事件に至ってしまう。
のちの大東亜戦争では、軍が「統帥権の干犯」のゴリ押しで文官政治家を退けて政治や経済の一切を仕切るが、この統帥権の濫用解釈を考えたのは北だという。
だが、北は日本の領土拡大を肯定しつつも、最大の仮想敵はあくまで英国とロシアで、中華民国との戦争の拡大、日米戦争は亡国の道として一貫して反対だった。皮肉にも、事態はことごとく裏目に出たといえる。
輿那覇潤も『中国化する日本』(isbn:4163746900)で「一見独裁的な専制政府よりも、在野の民間勢力の方がほとんど常に外交問題に関してはタカ派かつ強硬的」と書いてた。実際、日露戦争後は政府の講和に反対して戦争継続を求める民衆が日比谷の焼き討ち事件を起こしてる。大正から昭和初期、元老のリベラル派西園寺公望牧野伸顕らは、軍拡反対の欧米協調路線だったが、彼らは貧しい庶民階級出身の軍人たちに大いに憎まれた。
なんのこっちゃ、結局のところ日本を帝国主義に染めたのは一部の独裁的な軍人や政治家ではなく、維新以前の精神を忘れた日本国民自身だったんじゃないのか。