電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

白か黒かにあらず――まだらの世界

先日の「民主党はなぜモテへんか?」問題で畏友と長距離電話雑談。
つまり小泉総理は、半ば無意識にか、クラスの雰囲気を「小泉君とりあえずかんばってるんだから悪く言っちゃだめじゃーん」という方向に誘導するのがうまいのであり、そういう人間に理で細かい突っ込みを入れるのはマイナスにしかならない、と。
で、うん、やっぱ人へのツッコミだけじゃなく、自分から打ち出せる方針がなきゃモテそうな男っぷりとかが感じられないよね、じゃあいっそ、自民党本流のなし崩し的対米追従に対抗して、「対米自立」という一点で管直人石原慎太郎田中真紀子まで抱き込めたら、こりゃ絶対人気挽回、男が上がるよ。クラスの空気に乗った学級委員小泉に対し、クラスの端にいながら無視できない問題児?を救ってやる管、でどうよ、と夢想しお互い笑う。

・・・もっとも、自分の主体性を明らかにせず、とにかくとりあえずその時の場の雰囲気に便乗、というのが日本的世間で生き延びるコツであることを考えると、反米を明確に唱える人間は保守陣営の中にも確かにいるが、やっぱ不利だろうなあ、とも思える。
SAPIO」最新号の『新ゴー宣』では小林よしのりは、対米追従はサラリーマンの現実主義、自分はフリーのプロの実力主義の価値観だと明言してたが、うむ、それは自立心には富んでるだろうが、世間に順応して生きてる日本人の多数からは浮くよなあ、と再確認。

よしりんはどうも日本的サラリーマン社会をわかってなさそうな点が残念である。例えば、以前、政府はなんで大企業は援助してもバタバタ潰れる中小企業を助けてやらないのか、と書いてたが、確かにその通りだろうけれど、お上がすべての企業の面倒を見られるわけではない。中小企業が潰れても、失業やらして困るのは大体その中小企業のみで済むが、大企業が潰れると関連系列企業にも弊害が及ぶし「えっ、あんな大企業まで」と社会不安も広まる・・・現実に力のあるもののみが生き延びるのには、理由があるのだ。

企業社会というのは単純な善悪では通らず、良心的経営をするにも金と余裕が要る。
例えば、先日も触れた悪徳商法軽急便は日産・ダイハツから軽トラックを提供されていたそうだが、さて軽急便とは名古屋の会社である、勝手な想像だが、現地の日産・ダイハツ営業は「なにぃ? 名古屋はトヨタの天下だからウチの車は売れないだと? 馬鹿もん、とにかく売れ!」とかせっつかれて、実は軽急便っていかがわしい企業じゃないかと気付きつつも、お得意先だから、と、軽トラを卸してた。で、日産・ダイハツの上層は責任負わずに済むよう敢えて頬かむりしてたとか……そんなんじゃないのかなあ? と。

こういった具合だから、世の中から悪徳商法や企業不正はなくならない。
で、こうした構造的問題は学校じゃ教えない。若者がそれを知るのはやっと大学卒業年次になり、就職活動につく時である。で、その時には、雇ってくれる側には文句なんて言えない立場だ。一度組織に属すると、別に上の方針に疑問を持つなと命令されずとも、自分の属している組織は悪くないと思いたいのが人情である(かくいうわたし自身もだ。辞めた途端に自分でも見て見ぬ振りしてた点に気付く)かくて学校的タテマエは常に空回りだ。

現実の世界での勢力対立というものは、額面どおりの思想や主張の対立であるより、もっと生臭く即物的な、損得や利害の対立でもあるということがなかなか学校では教育されない。単純な善悪二元論的世界観を教える学校教師というのは、生臭い現実の対立を意識せずに済む特権的空間にいるからなんだろう。

『物語アメリカの歴史』猿谷要中公新書)を読む、いまひとつ面白くなかった。60年代公民権運動を直に見た時代証言や、アメリカ南部の現地体験記といった内容は貴重だったが、どうにも歴史観が単純な気がする(著者が正義感ある人なのはわかるが……)。
例えば、南北戦争について「奴隷解放主義の北部VS黒人奴隷酷使の南部」という通俗的図式以上の説明が乏しい、この戦争が同時に「先行入植者の北部連邦政府の中央集権主義VS後発入植者の南部未開発地域の地方分権主義」の対立であるということも一応述べられているが、全体的なトーンは、南部は悪者、という通俗史観の域をあまり出ていない。
第二次世界大戦の戦時徴用が皮肉にも黒人と女性の地位を向上させた(白人高学歴男がみな徴兵されて、その穴を埋めるため)、という点にも一切記述がない。これでは、公民権運動がなぜ60年代に起きたかがわからないではないか?
(戦争でのマイノリティの一時的地位向上、高学歴化がなければ、そもそも彼らは公民権を唱えるだけの発言力の芽さえなかった。それが50年代の赤狩り反動で脅かされたので、60年代、キング神父らが立ち上がった、という作用反作用の構造)

同じ中公新書の、阿部謹也先生の『物語ドイツの歴史』は、
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4121014200/ref%3Dbr%5Flf%5Fb%5F3/250-7997217-2836266
別に反動的皮肉の視線で書かれているわけではないが、それでも通俗歴史観を覆す視点が少なくなかった。
例えば、中世末期の宗教改革は、高校世界史レベルのもっとも通俗的な解釈では「カソリック法王庁が王侯貴族の世俗権力と結びついて腐敗堕落したので、そこに清貧な庶民信者の味方の革命家としてルターやカルヴァンが現れた」ということになっている。いや実際、その通りの面もあるんだが、事実はそう簡単ではない。
阿部謹也の同書では、中世末期の三十年戦争は、建前上、ドイツ諸邦内の新教国と旧教国の戦争ということになっているが、各領主にとっては新教か旧教かなんて名目に過ぎず、むしろ世俗の利害対立の大義名分に「ウチはもう新教にするから」「じゃあウチは法皇様の味方だ」とか言ってた辺りも淡々と説明している。

更に侮れない歴史の皮肉が、カソリック法王庁の金権腐敗を批判した筈のプロテスタント諸国の方が、貴賎に関わらず各人自分の仕事に励めと教えた結果、マックス・ウェーバーも述べてる通り「貯蓄は悪にあらず、職業に励むのは善い事である」というお墨付きのもとに容赦なく産業資本主義が発達することになる。
阿部先生は、19世紀中頃の普墺戦争で、新興プロイセンオーストリア・ハスプブルク大帝国に勝ったのは、鉄道と電信という新機器の利用、そしてオーストリア側が一分間に二発しか撃てない旧式銃だったのに、プロイセン軍は一分間に七発撃てる新式銃を使ってた、と、光文社文庫の『世界の軍用銃』ですら不明確にしか書いてないことを数字を挙げて詳細に書いている。
プロイセン側はなんでそんなに交通も通信も兵器産業も発達してたのか? 殖産興業と能率主義を善しとするプロテスタント国だったことと無関係ではないだろう。とまあ、旧弊を打破したはずの宗教改革の思想は、更に後、新時代型の軍国主義推進の下地となるわけだから、なんとも複雑な話である。

――あんまりこういう話をくどくど書いてると、つまり俺は「主義や思想なんて空疎なお題目さ、世の中は金や力を持ってるかで決まるんだ」と、背伸びした中学生の偽悪のようなことを言いたいのかと誤解されそうだが、それもまた極端な見方だろう。
とにかく、世はそう単純な善悪二元論じゃないんだが、なかなかそれってわかりにくいよなあ、というオハナシ。