電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

「この男の人生を……笑うな!!!!」俺は笑えない

一部で本年度最高の問題作漫画と囁かれる『最強伝説 黒沢』福本伸行小学館)第1巻、2巻を読む。
http://www.walkerplus.com/tokyo/20030624/bo1532_pkup.html
確かに凄ぇ。こいつぁ、狩撫麻礼いましろたかし『ハードコア』を超える珠玉のダメ人間漫画となりそうだ。
主人公の黒沢は、44歳独身の土木現場監督、親父ですらない、ただ馬齢を重ねただけの中年男である。しかし歳とともに孤独と惨めさを覚え「人望が欲しい」と願う。「一人がみじめなのではなく……この人恋しさがみじめだ…!」という台詞はなかなかリアルである。

しかし、そんな黒沢が、人望を得ようと思って、頼まれもしないのに、自腹を切ってこっそり現場の仕出し弁当に一人一枚ずつアジフライを追加しておいたり、というようなセコい工作はことごとく成功しない。と、思ったら、別の機会にほとんど素の天然ボケで若い部下の好感を獲得し、半ば面白がられつつ愛されるようになるが、すると今度は、調子に乗って、礼儀のなってない不良中学生グループを怒鳴ったら、後からその不良中学生グループに情け容赦ないオヤジ狩りのイジメに遭ったりと、ダメ中年の地獄変は続く……。

わたしが平成のダメ人間漫画の屈指と見なしてるのが、前述の『ハードコア』に、古谷実グリーンヒル』、小田原ドラゴン『おやすみなさい』、関川夏央谷口ジロー『かの青空に』あたりで、いずれもダメ人間を嘆かずギャグにしているか距離をおいて突き放しているのが味なのだが、この黒沢のリアルなダメ振りはそういうワンクッションがない。
「この男の人生を……笑うな!!!!」というのが帯の文章だが、俺は笑えんぞ、こりゃ。

例えば、家族もなくすることもない黒沢が、日曜日に公園に行き「カップルはもはや気にならないが、親子連れは目に痛い」とか「未婚の中年独身男は。どこに行っても浮いてしまう」とか内心で呟き、本人はまったくの善意のつもりで迷子の幼児に構ってたら誘拐犯と間違えられる辺りは、失職して平日昼間に近所の公園をほっついてる身には他人事のギャグではない。

――が、読んでて自分自身に引きつけようとすると「でも、これもどっか誇張された話だよなあ」とも感じてしまう。まず第一に、黒沢が44歳の土方って点。これは連載媒体が、もっとも読者年齢の高い漫画誌ビッグコミックオリジナル』ってのもあるんだろうが、わたしやその同年輩の30代ダメ男は、ここまでわかりやすくダメでもなく、そのわかりにくさが問題をこじれさせていると感じるからだ。

80年代とバブルを経て社会全体で学歴と生活水準が底上げされた現在にリアルなのは、一応ホワイトカラー的世間にいて、かろうじてそこそこ若くも見え、携帯電話やらパソコンによって適当に曖昧に孤独もごまかされ、しかしかつてのような地縁血縁の土着共同体や終身雇用的価値観に帰属意識があるわけでもない浮き草で、でも食うには最低限困らない、しかし将来どうなるか先も見えないフリーター的20代30代男、といった感じではないだろうか――って、そりゃ俺自身のことなんけど。

古谷実は『グリーンヒル』の後、もはやギャグのない問題作『ヒミズ』を描いたが、これはダメ人間漫画というより、ほとんどドストエフスキー的実存漫画の域に到達し、そのしんどい最終回の後、ダメ人間なりの初々しいおっかなびっくりの思春期像である『シガテラ』が始まったが、今のところ、『ヒミズ』のどん底を経ての前向きさは買えるものの、わたしとしては今ひとつの印象。いや、なぜまた今さら思春期物なの? と。

古谷実のダメ人間路線の原形は、30歳のフリーター男を主人公とした短編『いつか俺だって』にあると思われ、『グリーンヒル』はその延長と思えたが、わたしとしては、そうした古谷実自身の実年齢に近い「ダメ青年」を当事者意識を持って掘り下げたものが見たいのだけれど、『ヒミズ』『シガテラ』と、思春期的な「ダメ少年」の話が続いている。思春期テーマも意義はあるし、そこが対人関係の齟齬の原形なのもわかるんだけどね。

一方、黒沢はブルーカラー中年だ。つまり、少年かおっさんか両極端なわけである。無論、福本伸行自身の実年齢や、世代体験、同年輩の友人像などに照らして、黒沢がリアルであろう事に文句はないけれど。
要するに、我が同年輩の表現者に、上記のような、今様の20代30代ダメ人間(というほどではないけれど、どっか世間に順応できてない人、というか)を、ギャグしてごまかさず当事者意識を持って描き出そうという者はいないのか(いるんだけど俺が知らないだけなのかなあ)?

――と、書いておいて、しかし実際、じゃあ他ならぬわたしが、職にあぶれて平日昼間から中野ブロードウェイをほっつき歩き、しかし店員も今さらそういう客を怪訝な目では見ず、そんな自分と同じよーな客もいるのを見てどこか心の底に安心感を得ながら、『週刊読書人』や『諸君!』や『月刊アフタヌーン』を立ち読みして帰る……とかいった日常を物語として書く気になるか……う〜ん、こりゃ気が乗らねえな。いや、恥ずかしいとかいう側面より、これじゃまるでドラマにならねえじゃないか、という思いがしてしまう。

サラリーマンに当のサラリーマン世界をそのまま描いた物語は受けにくいという、代わりに『鬼平犯科帳』とか池波正太郎とか、或いは『踊る大走査線』なら受けるのももっともな話なのである。企業内の善悪のハッキリしないこまごました損得勘定とか人間関係のゴタゴタを描いた物語では、いまひとつ、胸躍るロマンが立ち上がらない。上下関係の厳しい侍とか、犯罪を捜査する者とかが、組織や人間関係の枠にぶつかりながら悪を倒す物語ならカタルシスがある。
ちなみに『島耕作』は、実は別にサラリーマン物ではなく、その外形をした、日経新聞絵解き情報&太閤記&ハーレクィンロマンスで、だから受けてるのだと思うべきだろう。

わたしは未読だが、最近の若手作家では、『NHKにようこそ』(角川書店)を書いた滝本竜彦が「引きこもり世代の旗手」と注目されてるらしい。が、その、滝本作品も、ただリアルな引きこもりだけでは書いてて救われないゆえか、なかり荒唐無稽な話にしていて、どうやらその荒唐無稽度合いが、引きこもりになるような人間の妄想にリアルということらしい。

考えてみたら江戸川乱歩も似たような面があったな。乱歩こそ、当時昭和初期の消費社会が生んだ、かろうじて食うには困ってないが社会性の乏しい人々、引きこもりやら無職平日昼間の男や高等遊民廃人に着目した先駆者だったが、『屋根裏の散歩者』でも『心理試験』でも『二廃人』でも、たいていオチがつく短編であって、リアルな日常描写で延々引っ張るようなことはしていない、そんなことしてたらこんなに読まれてないだろう(笑)

現実の日常には、そうそうわかりやすく劇的に自分はダメ人間かが問われたり、また簡単にオチなどつかず、散文的状態が続くものである。
が、その、普通に過ごしてれば見落とすような散文的日常の中に、一見見過ごされてしまいそうで、ちゃんと言葉にされてない、しかし確かに存在する、人の姿や思考や感情や、人間関係のあり方とかを浮き彫り出すのが文学的感性というものだったりもする。
この点、『最強伝説 黒沢』が、あまりに惨めで恥ずかしい領域ゆえちゃんと描かれなかった世界を一つ、誠実に描き出そうとしていることは、疑いないとは思う(しっかし、果たしてここから何がどう「最強」になるんだろうなあ…)

――さて、では、黒沢ならざる我々が正直に直視すべきはなんだろう?