電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

葦原骸吉の2010年の収穫

以下は恒例の私的年間ベストテン。

1.チリ鉱山事故

北から南までロクでもない事件ばかり起きた本年であるが、ただのやじ馬としては、8月下旬に33人の生存が確認されて以降目が離せなかった最大のイベント。
救出を待つ間、鉱夫たちが「自分たちはチリ国民であることに誇りを持つ。そしてそれ以上に鉱山の男であることに誇りを持つ」などとカッコいいことを言っていたのが印象深い。
そして、救出作戦成功時の国を挙げての熱狂ぶり、第二次産業が中心の国で、労働を媒介とした愛国心によって一致団結した人間を見ると異常に嬉しくなる。
なぜって? それは、仕事に実体的な(苦労や危険あってこその)ヒロイズムがあるからだろう。救出成功で熱狂するチリ首都の市民の映像で、若いラテン美人が「鉱山の男サイコー!」と叫んでいたのがなんとも楽しそうだった。
無論、ツッコミどころも満載。救出劇をしっかり政治利用する大統領、閉じ込められた鉱夫の妻と愛人の泥沼発覚、救出後はマスコミ取材でしっかり商売する鉱夫家族、そもそも今回の33人救出は本当に運の良い例外で毎年多数落盤事故で死んでる事実……だが、これらの要素もあるからこそ、貴重なドラマである。
だいたい裸一貫で金稼いでる筋肉労働者が無害無欲な聖人君子のワケねえだろ、酒も飲みたい女もはべらせたい…etcetc、といった俗な欲得もあるからこそ一生懸命体張ってんじゃねえか。
今回の救出劇は本当に運の良い例外だが、政府がここまで本気になったのも、政権にパフォーマンスとしての利用価値があったからだ。そんな欺瞞的な理由でも、結果として、滅多にない先例ができたことは、今後の世界の鉱山を改善するお手本材料になる。
これらはすべて、翻って自分らのような、汗と油と煤の臭いがする労働を目に見えるところから消し、こぎれいなオフィスの第三次産業中心社会で生きる身には見えなくなった、文明生活を支える労働の本来のリスクとコスト――それがあるからこそ尊い――をよく教えてくれたと思う。

2.ルポ『日本残酷物語

宮本常一山本周五郎ほか編著(isbn:4582760953
1959年(昭和34年)に刊行された本書には、飢えた漁民による難破船への掠奪、囚人を死ぬまで働かせた監獄労働、果ては飢饉時の人肉食まで「日本人もかつてはここまで貧乏で、それゆえ野蛮で残酷だった」という話のオンパレードだ。
印象深かったのが、飢えた農民の漂流者や落武者に対する掠奪の話。
落ち武者狩りの話は全国各地にあるが、大抵そのタタリの話とセットになっている。生きるためには人を傷つけて物を奪うこともしなければならない貧民がいる、でも本当は悪いことで、そういう後ろめたさの具現として、のちに災害や疫病が起きれば「タタリが起きた」と伝えられる文化が生まれたようだ。
はたまた、北海道開拓や明治から昭和のタコ部屋労働の記録では、低賃金で雇われた肉体労働者に対して、さらに作業着代、食費、阪場の寝具代など名目をつけてのピンハネが公然と行なわれたとかいう話が出てきて、なんのこっちゃ、現代の派遣労働者と基本は変わらないではないかという感慨になる。
この『日本残酷物語』じつはまだ全巻は読み通せていないのだが、飢饉の話、疫病の話、タタラ場の製鉄民の話、炭鉱労働者の話……など、気になる箇所を拾い読みするだけでも、改めて、昔の人は大変だったんだなあ、と痛感する。
冷戦後の現代の歴史研究では、近世後期には商品作物の栽培などで農村もわりと豊かになっていたという傍証も多く、近代以前の民衆の悲惨ばかりを強調するのは偏った左翼史観だと批判される。これも、事実の一側面としては正しい。
しかし、本書が編纂された1959年(昭和34年)とは、いまだ敗戦から10年あまり、電気のない離島など、日本各地の地方には貧困がありありと残っていた。
当時の編著者たちがそうした当時の日本に残る「貧乏」「不潔」「暴力」に憤り、その事実を記して伝えようとした意気込みはバカにできない。
昨今のネット世論で、中国人や韓国人、在日への嫌悪を唱える人々には、彼らに「貧乏」「不潔」「暴力」のイメージを見いだしてそれを嫌悪している人が少なくないようである。現代日本人から見れば彼らがそう見えるのは事実の一側面ではあるが、かつては日本人の間にもそれが溢れていたという事実を踏まえずに現代の豊かな日本だけを自画自賛するのは、真の意味での愛国心の欠如だ。かつての時代の辛苦に耐えた人々のお陰で現代の日本があるのだから。

3.評伝『パンとペン』

黒岩比佐子 著(isbn:4062164477
明治〜昭和期の社会主義者堺利彦の生涯を、彼が設立した出版会社「売文社」を中心に記したルポ。
堺は大杉栄幸徳秋水の伝記の重要人物で、社会主義者としての活動は日露戦争での反戦運動に始まる。つまり本書はいわば『坂の上の雲』(後述)や『アナーキー・イン・ザ・JP』(後述)のB面。しかし時としてB面は表より興味深い。
堺利彦は典型的な没落士族の出身で(当時日本の近代化を担ったインテリは、軍人や官僚になった者も在野の人間も大抵そう)、それをよく自覚していた。
少々意外ながら、堺は維新負け組の佐幕藩出身で在野の人間ながら、政府を仕切る長州藩閥の人間に目をかけられ、長州の国史『防長回天史』の執筆に参加していたり、社会主義者となって以降も、現在では保守・国粋主義の論客に分類される三宅雪嶺長谷川如是閑も堺と深い交友関係があった。じつは夏目漱石堺利彦大杉栄の行なった電車賃値上げデモへの共感を公然と発言していたという。
明治から昭和前期の文壇、論壇人は、存外に主義を超えて人間を評価する懐の広さがあったようだ。
さらに、やはり感慨深いのは、もともと生活に困っている主義者仲間を養うために作った「売文社」の存続のため、とにかく仕事を選ばなかった態度だ。
なにしろ、企業や商店の広告文から、洋書の翻訳、学士論文の代作、口述原稿の書籍化(現代でもよくある語り下ろし本と同じ)、市井の個人が知人に金を無心する手紙、男女間での別れ話の手紙、果ては警視庁の私娼取り締まりに対する抗議文の執筆まで引き受けた。発行した書籍は、海外の翻訳小説、海外旅行案内、作家の名句集、健康書、飲料産業の業界誌まで多岐に渡る。
それだけ当時はきちんとした文章を書ける技術のある人間がまだ希少だったともいえるし、堺らの商魂がたくましかったともいえるし、妙なプライドにこだわって市井の人間を見下すことなく、仕事の貴賤など問わなかったともいえる。
堺はこうした仕事の傍らで社会主義者としての発言を続けた。別に狂った過激思想を説いているわけではない。1917年(大正6年)に衆議院に立候補した時の主張には、普通選挙、言論集会の自由、結社の自由、八時間労働、最低賃金、小児労働の禁止など、現代では当然のように保障された施策が含まれている。当時はこの程度のことを唱えるのも弾圧の対象になったのだ。
そればかりか、講演会ではなんと「民主主義」という言葉を使っただけで監視の警官に制止されたという。なぜなら当時は「民主主義」は「君主主義」の対立概念と見なされたからだ(それで大正期の吉野作造らは「民本主義」なる現在ではほとんど聞かれない語句を使った次第という)。
明治から昭和前期、日本はまだ圧倒的に貧しく、文学も社会運動も、現代とはまったく意味と役割が違っていた。現在当たり前のことが、かつては当たり前でなかったことがよくわかる。
そして何より、売文者の末裔ながら志も何も後回しで目先の仕事で終わっている身としては襟を正させられるばかりである。

4.ドラマ『坂の上の雲

野沢尚・柴田岳志・佐藤幹夫:脚本
マヌケな話だが、昨年の「第一部」放送はうっかり見逃したので、本年はカレンダーに印を付けて放送を待った。
数年前『名将ファイル 秋山好古・真之』という本に関わったが(こちら参照)、本来はこのドラマ化をあてこんでの仕事だった。それだけに感慨は深い。
本年放送の「第二部」では、しだいに日露戦争に向かう大局的な話の比重が増えているが、それでも可能な限り明治の人間の日常描写に力を入れようという姿勢がうかがえるのが好印象。
香川照之演じる正岡子規宅の場面では、些末な天候の変化も丁寧に描かれ(屋内の電灯も貧弱だった当時、晴れたり曇ったりの影響は大きかった)、さまざまな植物の植えられた庭など、広い世界を相手にする秋山真之に対し、子規の住まう病床六尺の空間でもそこに小世界があることが暗示されている。
そして秋山好古、真之兄弟は立派なエリート将校になっても、相変わらず木造のボロ家に住む老母やら、何かの折にやたら大勢集まってくる親族……洋風の軍服を着た戦場の軍人の陰で、こういう人々が日本の近代化を支えたわけだ。
来年の「第三部」がどうなるのかはわからないが、ひとつ暴論っぽい希望を述べると、日本海海戦のシーンは30分程度で済ませて(いずれにせよ笠原和夫脚本の『日本海大海戦 海ゆかば』に迫るのは難しいだろう)、その前の、宮古島で名もない漁民たちがバルチック艦隊を発見して、丸木船で荒波を超えて通報に向かった話でまるまる一話分使っても良いのではないか。
現実の日露戦争は単純な英雄活劇ではない。当時の無数の無名の庶民が(銃後の労働も含め)血と汗を代償に必死に戦ったから戦争に勝てたという点が重要なのだから。

5.漫画『進撃の巨人

諫山創 著(isbn:4063842762
本年前半あちこちで絶賛されたホラーファンタジー風の漫画作品。
中世とも未来ともつかない要は文明の利器がまるでない世界で、人間と巨人が戦う、ただそんだけ。
すでに指摘している人もいるだろうが、本書は現在もっとも臨場感のある「戦争映画」として読むことができる。
劇中の、ただ「とにかく大きい」「人を喰らう」というだけの巨人が本当に怖い。これは、日本の特撮怪獣映画が持っていた本来の方向性――つまり、巨大な怪獣を戦争や災害といった個人の力が及ばない運命のメタファーとして描き、それに立ち向かう人間の試練のドラマで見せる作劇の見事な変奏だ。
(初代の『ゴジラ』以来、『地球防衛軍』『海底軍艦』など東宝の特撮怪獣映画の多くは、『さらばラバウル』『太平洋の嵐』など、同じ東宝の戦争映画と重複するスタッフ、キャストによって作られてきた)
人間の力ではどうあっても打ち勝つことなど不可能な巨人という強大な敵の恐怖を前に、ある者は一個人的な保身に揺れて逃げ出そうとし、またある者は自分と仲間の生命を守るため、必死に知恵と勇気を振り絞ろうとする。
戦争や災害などといった巨大な力の前に個人は圧倒的に無力であり、だからこそ、自己犠牲的な勇気を持つことと助け合うことが尊いという、平和な文明生活が続いている現代ではすっかり忘れられている基本を、本書は迫真のリアリティで描ききっている。

6.小説『アナーキー・イン・ザ・JP』(中森明夫:著)

(11月11日の日録参照)
http://d.hatena.ne.jp/gaikichi/20101111

7.映画『キャタピラー』(若松孝二:監督)

(9月23日の日録参照)
http://d.hatena.ne.jp/gaikichi/20100923#p2

8.漫画『百姓貴族

荒川弘isbn:4403670857
漫画家になるまで北海道の畜産農家で育った筆者の半生の実録。
なにか言葉を弄して評するのが阿呆らしくなるような、ミもフタもない「実話」の重み。
買い物しなくても米や野菜や果物はお裾分けで手に入る環境(田舎ではよくある話だが、北海道ではブツのスケールが違う)、畑でなぜか鮭や鹿を「収穫」といった日常から、豪雪にヒグマの脅威、骨折しても一休みしてすぐ働く爺さん、農協の生産調整という理不尽、家族のように世話した家畜の殺処分……と貴重な話だらけである。
これを読むと農家が楽しそうとは思えない。が、それが自然状態という中で育ってきた人間の誇りには頭が下がらざるを得ない。

9.映画『キャピタリズム

マイケル・ムーア:監督
あいも変わらずムーアだから話は一方的だし随分と荒い。本作を観ても金融デリバティブってのはどういうカラクリなのかさっぱりわからんし、ラストで、フランクリン・ルーズベルト大統領を、貧富の差を是正する社会保障制度を広めようとした人物として手放しに絶賛するのも、日本人としてはいささか鼻白む。
だが、現代アメリカのマネーゲーム資本主義に怒るムーアが、左翼イデオロギーではなくキリスト教の精神に訴えようとする必死さは非常によく伝わる。
アメリカでは聖書の記述を単純に信じる膨大な人間が共和党流の弱肉強食政策を支持しているわけだが、ムーアが神父や司教に話を聞きに行くと、聖職者は口を揃えて今の資本主義はおかしいと言う。当然だ、聖書には「富める者が神の国に入るより、ラクダが針の穴を通るのがまだ易しい」と書かれてたはずだろ!
わたしは本作品を新宿の武蔵野館で観たが、終わった後、後方の席から大きな拍手が起きた。拍手したのは70〜80代のじいさん連中だった。
映画館を後にしながら、あの人たちは、かつてまだ日本が貧しかった頃、炭坑や製鉄所で組合運動に身を投じた人々なのだろうか……などと思った。

10.ルポ『CIA秘録』(上・下)

ティム・ワイナー 著(isbn:4163708006
本年、仕事のため読んだ本の中では一番面白かった内幕暴露本。
世界最大の諜報機関と呼ばれるCIAだが、朝鮮戦争でもヴェトナム戦争でも後手に回り、1960年代のカストロ暗殺失敗やら、1980年代のイラン・コントラ事件やら、ズサンな失敗は数限りない。その辺の笑えない裏事情が山盛り。
CIAの敵となった旧KGBや世界の共産主義者は(その理念が正しかったかは別として)冷戦時代までに国際的なネットワークを築いていた。ところが、元々アメリカという国は独立以来ヨーロッパ諸国の干渉を避けるため孤立外交政策を取っていて、戦後に米ソ冷戦体制ができてからいきなり全世界規模の諜報活動を始めたので、諜報の経験も情報網も(とくに非西洋地域では)ろくになかったのだ。
朝鮮戦争が起きた当時には、現地人で信用のおける情報提供者もいなければ、米国の諜報機関内に朝鮮語がわかる人間はろくにいなかったとかいう具合。
結局、人間、必要がなければ外国とか他者には関わらず、慌てて金と力で人脈網を作ろうとしてもうまくゆかないのだなあ、というハナシ。

(列外)随筆「なんだかなァ人生」(柳沢きみお

本年始まった「週刊新潮」の連載エッセイ。
『大市民』シリーズの豪快なイメージとは裏腹な小心なぼやきの多い内容に文字どおり「なんだかなァ」とため息をつきつつ、結局毎回欠かさず読んでいる。
柳沢きみおは、男女の愛憎のもつれや職場の対立や出世競争などといった、とことん現世的な人間関係のドラマを描く「大衆作家」に徹してきたことを自認する漫画家だ。率直に言って、もっぱらSFやらファンタジーやらの非日常的な世界観に浸ってきたオタク人種のわたしは柳沢の熱心な愛読者ではない。
しかし、オタク相手の商売ばかりが発展した日本の漫画文化は結局大人の娯楽として成熟しなかったと言いきる柳沢の視点は、凡百の自画自賛な「ジャパニメーション万歳」式のマンガ・アニメ評論者からは出てこない貴重な見方だろう。

(列外)アニメ『∀ガンダム』(富野由悠季:総監督)

仕事のため三日間で全話を再視聴。
改めて思ったが、本作品は王朝時代の歴史劇みたいなもので、従来のガンダムシリーズのような現代的な政治劇、戦争劇を期待するとそういう快楽は乏しいけれど、これはこれでよく考えられている。
すでに指摘している人もいるかも知れないが、本作品の舞台は幕末と同じ図式だ。宇宙から来たムーンレイス(月在住者)は黒船、これに反発する単純な地球在住者は攘夷主義者、ムーンレイスながら地球在住者に協力する一部の技術者はお雇い外国人、ムーンレイスの技術を手に入れて自分らも帝国主義者に成り上がろうとするグエン卿一派は、さしずめ攘夷派から転じた薩長の開国派だろう。
そして、上層部が戦争を止めようとしても暴走するムーンレイスにも、とにかくよそ者には感情的に反発する地球在住者にも、妙なリアリティがある。
とはいえ、自分は現代の文明人と思ってる視聴者は、よそ者のムーンレイス、野蛮人のようにも描かれる地球在住者、どっちも感情移入しにくいだろう(わざとそれを狙ったのかも知れないが、この点も本作品の人気の低さに影響してそう)。
本作品は主人公ロランの純朴さのおかげで非常に救われているが、一点だけケチをつけると、やはり主人公側のキャラのほとんどが女王ディアナ万歳なのはやっぱりちょっとだけウザい(前作「Vガンダム」で女性原理のエグさばかりを描きすぎた反動なのだろうけど…)。女王の共犯者のキエルお嬢様は一回くらいは個人のエゴで女王とケンカして、でもその結果お互いの理解が深まった、とかいう描写が欲しかったところ。