電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

25年前の大西洋戦争

私事で恐縮だが、昨年『図解「世界の紛争地図」の読み方』(isbn:4569667198)という本の仕事に携わった際、旧ソ連を含む欧州と、南北アメリカの紛争を担当したわけだが、南米の項目で1982年の「フォークランド紛争」を扱うことに、妙な違和感があった。
なんというか、これは他の紛争と微妙に性格が異なるのだ。他の中南米の紛争の多くは、ニカラグア内戦にせよ、コロンビア内戦にせよ、紛争当事国の経済格差と政治思想的な左右対立(大抵、反米政権に対しアメリカが介入)が背景にある。
が、フォークランド紛争はまるで違う。まず、一方の紛争当事国がイギリスというのも異例だ。内陸地帯での戦闘がなかったためか、それほど悲惨で深刻な印象がない。が、「冷戦時代には珍しい西側国同士の戦闘」「当時西側最新の原子力潜水艦、対艦ミサイル、ジェット戦闘機などが贅沢に投入」という、その異例さが却ってポイントだろうと思い、その点を記した。
(余談だが、英国とアルゼンチンの国交断絶状態は1990年まで続き、2001年のブレア前総理のアルゼンチン訪問でようやく一区切りが着いた、と書くと、意外にそんな「完全に昔の事」という気もしないかも知れない)
――ところがである、浅羽氏はいきなり「現代日本フォークランド紛争を再研究せよ」と説くのだ。実際これには論拠がある。『天皇反戦・日本 浅羽通明同時代論集 治国平天下篇』の終盤、こんな文章が出てくる。

七十年まえの日本の軍人らは、日露戦争に再び勝つつもりの大艦巨砲主義を遂行して、戦艦大和の悲劇を残し敗れていった。
 この笑えぬズレは、戦争を準備する軍人の対極にあるはずの反戦を唱える人々にもあるのだはないか。彼らはいつも、このまえ終わった戦争だけを阻止しようと全力で頑張るのだ。
 日本人は、もう六十年以上も、戦争を直接には体験していない。ゆえに、反戦家たちはずっと、大東亜戦争の阻止しか考えて来なかったのではないか。しかし当然ながら、次に来るかもしれぬ日本の戦争は、大東亜戦争とは似ても似つかぬものである可能性のほうが絶対高いのである。(p295-296)

ここで言う「大東亜戦争とは似ても似つかぬ」戦争の一例に挙げられたのがフォークランド紛争だった。当時の英国の立場を今の日本に置き換えてみよ。
戦場は本国から遠く離れた場所で、純粋に経済的な国益のための戦争、戦闘には空海のハイテク兵器ばかりが使われ、ドロ沼の陸戦が最終局面までほとんどない……となれば、戦況が勝ってる間は国民も支持するだろう(実際、当時すでに凋落しかけの英サッチャー政権は、フォークランド紛争で見事に支持率を上げた!)、そうなると「軍国主義的侵略の再開」「いつか来た道」という日本の反戦左翼の化石常套句のパンチ力だって大幅に低減される。
そりゃ戦死者も出るかも知れぬ、だが、敵兵で直に殺し合いというイメージも薄い、警察や海上保安庁の殉職者と同じような感覚で受け止められてしまうのではないか? ……と浅羽氏は説く。
――これは絶妙なリアリティがある。本当に起きたら、自分でもうっかり違和感なく受け止めてしまいそうな気がする。
ま、事態はことごとくなし崩しなのである。
反戦左翼が声高に警戒しているようなわかりやすい軍国主義復活(本当は警戒というより願望している←自分が「弾圧される悲劇の英雄」になれるから)などありえないし、ネット右翼が声高に警戒しているようなわかりやすい北朝鮮侵攻(本当は警戒というより願望している←自分が「侵略される悲劇の愛国者」になれるから)も簡単に起きるとは思いがたい。
いつの間にかそれが空気になってた、というようななし崩しこそ、本当は怖いのだ。
案外、憲法改正は永遠に先送りのまま平然と事実上の戦争としか言えぬ状態になってたりしてな。
ま、何事も、この国では、大義名分と本音が一致しさえすればなし崩し許容だろう。
それこそ銀行が省エネを口実に「夏でもネクタイ」をやめるようにw