電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

生きてる人と死んだ本

文藝春秋社の『諸君!』が休刊だという。朝日新聞社の『論座』がなくなっても「まあしょうがないよね」としか思わなかったが、これはちょっとショックだ。
同じ保守系論壇誌でも新聞社である産経系列の『正論』は大真面目な政治的大局論ばかりなのに対し、文芸出版社である文春系列の『諸君!』は、大局論も載るが、どっちかというと、細やかな人間観もあるリベラル右派だった。こういう媒体がなくなるのは保守側の余裕の喪失を感じる。『正論』じゃ坪内祐三の『1972』みたいな連載はありえそうにない。
それにしても、昨今、やれワーキングプア、格差拡大、派遣切り、金融破綻と騒がれる状況は、不謹慎な言い方をすればリベラル左派には都合よいはずなのだが、岩波の『世界』でも、消えた『論座』でも、左派論壇がそれを生かせている印象がない。
思うに、今進行している「新しい貧乏」は中間層の没落なのだろう。
かつて1960〜70年代、日本が高度経済成長を遂げてほぼ均一に貧困がなくなると、リベラル左派は、無理やり「かわいそうな弱者」を探して、在日や同和や身体障害者や女性や子供の人権などの少数被差別者にばかり目を向けるようになった。
中間層が安定している時代はそれでギリギリ通用したのかも知れないが、没落した中間層はそういう「弱者」とは異なる。現状、日本のリベラル左派は没落した中間層を味方につけようとしながら失敗しているようにしか見えない。
そこで頭をよぎるのはイヤ〜な時代の教訓である。
かつてワイマール共和国時代のドイツでは、元からのプロレタリア階級は共産党を支持し、富裕リベラル層は社会民主党を支持したが、没落した中間層はナチスに流れた。
これを手垢のついた凡百の「いつか来た道」論と嘲笑う者もいるだろうが、俺は最近あんまり笑えなくなってきた。