電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

権威のあるものはなぜ権威があるのか?

『パンドラ SIDE-B Vol.2』で「東浩紀ゼロアカ道場」緊急寄稿というのを読んだら、若手批評家の育成を目指してたらしい東浩紀自身が若手から下克上されることに脅えているように感じた。で、幾人かの友人に「じゃあ、東先生は権威を演じてみせるしかないでしょ」と言ってみたら、異口同音に東先生はそういうの嫌いだしできないでしょ、と返される。
一部で誤解があるが、権威とは本来、これを崇めろと命令しなくても人が自然に崇めるものである。(http://d.hatena.ne.jp/gaikichi/20080930#p1
わたし自身は無学歴の無能であるが、それでも、世の中、権威が権威として機能しないと困る局面というのはあると思う。確かに、批評は誰にでもできる。しかし、わたし自身が東浩紀を好きかは別として、さすがに市井のブロガーと東大の大学院を出ている教授がまったく等価では筋が通らない。それでは、東大に入って、その後も大学院とかで一生懸命に勉強した東浩紀の努力は無意味なのか?
先日も呉智英夫子が『SAPIO』で、世に学歴差別という言葉があるが、学歴制度は本来、近代以前の階級制度の差別性を正すものだったのではないか、といつもの論を説いていた。
受験エリートはなぜエラいのか? 国語だ数学だという知識の差だけではない、それを学んで考える基礎能力の差ということになっている。
東浩紀は東大を出ているわけだが、東大はただ日本一の高偏差値大学というだけではない。背負っている歴史がまた重い。東大はもともと明治政府が官製のエリート養成機関として作り、過去にも多くの優秀な人材を輩出してきた。
なるほど、ただ古いというだけで何の価値もないものも存在する。しかし、政界、官界、財界では、いまだ東大閥は一定の勢力となっている。
世の中は目に見える実力だけでなく、慣例や過去の実績も大いに重視される。人は「先行する人間にも評価されているもの」なら安心して受け入れるのだ。無名の書き手の文章では誰も見向きしないが、はてなブックマークの量が多ければみな注目するではないか。
堀江貴文は東大卒だったが、既存の財界人の覚えがめでたくなかったので、球界進出を目指したときはナベツネに弾かれた。(http://d.hatena.ne.jp/gaikichi/20060209#p1
なぜ、歴史のあるものはエラいということになるのか?
われわれはいかに先行世代を否定しようとも、先行世代が作ってきた社会システムの中で育って生きてきた。自分が通った学校も、通学のための道路も、その途中で寄り道する駄菓子屋も、いっさい上の世代の人間が作った物で、それによって自己が形成されてきた。
われわれは皆、ある日いきなり成人した姿で空中から生まれてきたわけではないのである。いかに「自分は先行世代の文化にとらわれていない」と主張しようとも、この物理的肉体的事実ばっかりは(悔しいが)絶対に否定できないのだ。
――と、俺が言ったみたところで、東浩紀先生自身が、そういう歴史性を否定する思考の人だったら仕方ないけど。