電氣アジール日録

自称売文プロ(レタリアート)葦原骸吉(佐藤賢二)のブログ。過去の仕事の一部は「B級保存版」に再録。

活字で物は動かせるか

先日の三島由紀夫の件で、三島は死んで呪いを残した、と書いてから、そこから連想して思ったこと。
そもそも言葉というのは呪いである。確か中島らもガダラの豚』にもそんな意味のことが出てきたような気がする。

呪文というものがある。アラビア人は「開けゴマ」と言えば石の扉が開くのを想像し、支那人は紙に呪文を書いた呪符が式神になるのを想像し、ユダヤ人は泥の人形に呪文を書けばゴーレムになって動き出すと想像した。
要するに皆、言葉が物を動かすと想像したのである。
現実にはそんなことは起きないのに、なぜそんな風に東西のどこの文明圏の人間もそんなことを考えたのだろうか?

言葉というのは人間にとって、世界を区分する記号であった。
俺もよくわからんが、ソシュールを引き合いに出すまでなく、人間というものは言葉で世界を認識している。「言い分け」とか「呼び分け」と言われるやつだ。「犬」「猫」「熊」という言葉がそれぞれなければ、それらは全部ただ「なんか四本足の獣」として区別認識されない。

古代人にとっては、何かを名づけ、呼び分けるという行為自体が世界を認識する第一歩であり、言語体系というものが(人間にとっての)世界観把握の根底にある……そーいや、まさに呉智英の『インテリ大戦争』か何かの中にも、古代支那の神話か何かで、文字を発明した奴が世界の混沌から「お前は恐ろしいものを作り出してしまった」とか言われるとかいう話が出てきた。

しかし実際、言語によって動かすことができるのは、その言語というルールを知っているものだけである。だから呪文なんてものは実際には人間以外のものは動かせない。
逆にいえば、言葉の分かる装置があればそれは呪文で動く――って、それはコンピュータのことである。コンピュータは言語で動いてる。

――なんだかとりとめもない話になってきたが、まあ、なんとなくの思いつきながらメモに残しておく。

そういや、かつて某友人は「活字で熊を殺せるようになりたい」って言ってたな(笑)